2011年、キューバ、サンティアゴ・デ・クーバ、その2。

 さて、正直なところキューバでのメーデーに関する事前知識は一切なかったので、5月1日にサンティアゴ・デ・クーバに滞在することになったのは100%の偶然である。帰国してから調べてみても、ハバナでのメーデーのレポートはあっても、その他の街のものはほとんどない。残念ながら休刊する「旅行人」に、小さな記事で地方都市のメーデーのパレードが紹介されていたくらいだ。詳細な情報満載でお馴染みのLonely Planetでさえ「ハバナで軍事パレードがあるよ~」と軽く記載されていただけだった。旅の途中でその記載には目を通したはずだったが、軍事パレードには一切興味を持てなかったので、記憶の片隅からも削除されていたという訳である。

 思い返せば、ここはキューバ革命発祥の地であるわけで。当然のことながら人も、街の暑さと同じくらいに、熱い。それはサンティアゴ・デ・クーバ滞在2日目のこと。旧市街や郊外の要塞等をあらかた堪能した後でCasa Particularに戻ると、奥さんから「マニャーナ(明日)、フィエスタ!」ということを教えてもらって、そういえば明日はメーデーだったことを、ここでようやく思い出した。おお、メーデーそのものには興味を持てなくても、「フィエスタ」となれば話が違うだろう。何時からだ?と聞けば、旦那さんは夜の3時には起床するとのこと。いや、それはちょっと辛いと怯んでいると、「5時に起きれば十分だ」と言うので、そのようにモーニングコールを頼む。実際、その夜は日付が変わる頃からパーカッションの音が遠くから永遠と鳴り響くような状態で、ベッドの中でついついテンションが上がり、なかなか寝付けなかった。まるで遠足の前日の子供のような。

 5月1日朝5時起床。朝ご飯をいただいて、サンティアゴ・デ・クーバの革命広場へと向かう。まだ外は暗い。迷子になるのでは、という心配は無用だった。どの道が革命広場に通じているかなんて、そんなものすぐわかる。夜明け前のこの時間から大通りいっぱいに人が広がって、ある者は太鼓を叩きながら、ある者は踊りながら、ある者は歌いながら、文字通り老若男女が皆同じ方向に歩いていたからだ。太鼓隊は10人以上が集う本格的なものから、2・3人の小規模なものまで、思い思いに打ち鳴らし、その場にたまたま居合わせた人々が踊りや歌で呼応するというスタイル。楽しくて、いろんな太鼓隊の様子をみていたら、いつの間にか空が明るくなっていて、ふと気がつけば、そこは革命広場だった。

 革命広場のど真ん中に聳え立つ巨大なアントニオ・マセオの像の前に厳かな雛壇が設けられていて(実は、パレードの最中、その雛壇にラウル・カストロが来ていたらしい。そんなこと知らなかったので、雛壇なんか気にも留めてなかったよ!)、そこを先頭に思い思いの横断幕やプラカードを持った人々が列をなしていて、その列の後方は遥か彼方に霞んでいる。日が高くなるにつれて、その列はさらに膨れ上がる。この圧巻の光景に興奮して歩き回っていると、3tくらいはありそうなトラックの荷台の上でスタンバイをしていた、赤いTシャツを着た数十人の太鼓隊と出会った。手招きに従ってトラックの荷台に載せてもらう。「飲むか?」と聞かれ差し出されるのは、もちろんラム「Havana Club」の小瓶。瓶のまま、ごくりと一口いただくことを何回も繰り返し、朝からすっかりホロ酔いである。

 トラックの荷台の上では、写真を撮れ撮れとせがまれたり、軽く太鼓を打ち鳴らして踊ったり、朝から盛り上がっている。そんな中も広場を埋め尽くす人はどんどん増えていく。そして、太陽がすっかり昇りきった朝8時頃、徐々に人々が動き出す。パレードのスタートだ。僕にラムを勧めてくれた兄ちゃんがパレードを指差して「一緒に行こうぜ」と誘うので、二人で荷台を降りて紛れ込む。学校か、職場か、町内会かはよくわからないが、いくつかの梯団に別れて歩いている。キューバ国旗や、カストロやゲバラの写真、革命や自由やメーデーを祝すような垂れ幕から、怪しげなオブジェまで、さまざまなメッセージを掲げながら、道いっぱいに広がって歩いて行く。

 パーカッションを打ち鳴らす集団が歩いてやってきた。一緒にいた彼が、手拍子の打ち方を教えてくれた。文字に起こすと、こんな感じ。“たっっっっ、たんっ、たんっ、っっったっ、たん、たっっっっ、たんっ、たんっ、っっったっ、たん” 2拍目の“たんっ”が1/32か1/64だけ後ろにズレるので、跳ね跳ねである。甲高い音でクラーベがリードしつつ、さらに複数のリズムパターンを奏でるパーカッションとこの手拍子が複雑怪奇に混ざり合い、巨大なうねりを生み出す。文字で起こすと陳腐だが、映像見ていただければ少しでは雰囲気が伝わるだろう。この独特のリズムは「コンガ」と呼ばれ、この地が発祥とのこと。楽器の「コンガ」は、リズムの呼称が誤って定着したものらしい。真偽の程は定かではないが。

 さて、私がついさっきまで荷台にいたトラック(要は、サウンドカーである。)は、数十人の巨大な太鼓隊を積んで、もちろん(笑)、パレードの最後尾からゆっくりスタートする。激しくリズムを打ち鳴らしながらトラックは進み、それを取り囲み踊る人々は等比級数的に増えていく。革命広場を出れば、サンティアゴ・デ・クーバの街一番の大通りがサウンドカーとそれを取り囲む人々で占拠された。既に時刻は10時を回り、太陽は痛いほどの日差しを投げかけているが、それすらもパワーに変えて、腰をふりふり、声をあげて、手拍子を打ち鳴らしながら、踊り、歌い、騒ぐ。

 サウンドカーは、革命広場からリベルタドーレス通りへと至り、リベルタドーレス通りを西に入ってマルティ通りにたどり着いたところでサウンドカーは一旦解散。だが、まだ1日は始まったばかりだ。本当の路上解放はここからである。マルティ通りには既にサウンドシステムがいくつも準備されていて、キューバ版ダンスホール・レゲエ的な音楽が爆音で鳴らされている。その並びには、CUP(人民ペソ)で買える生ビール屋台があって、すっかり人だかりができている。まあ、ダンスホール系の音楽は正直しんどかったので、CUPでビールを買って少し休憩する。ふと通りを見れば、つい先程までトラックの上にいたパーカッション隊が、今度は路上を練り歩きながら踊りの輪を膨らませている。急いでその輪の中心に入り込んで、汗びっしょりになりながら、見よう見まねで僕も踊る。踊りながら誰かと目が合えばビールやラムが差し出されるし、「グラシアス」と言って返せば、「フォトフォト」と言われるので写真を撮る。キューバの人たちは本当に踊りが上手く、みんな心から楽しそうに激しく体を動かしている。生まれたときからこのリズムが体の中に叩き込まれているのだろう。僕らが河内音頭を聞けば自動的に体が動いてしまうように。

 例えばシリアでも、例えばイランでも、例えばビルマでも、僕が今まで旅した国では必ず現体制の批判をする人たちと出会った。だが、この国ではラウル・カストロへの文句は耳にしても、フィデル・カストロに対しては不思議と賞賛ばかりだった。50年間愛される指導者というのは世界的に稀だ。それを、カストロの人間性とみるか、キューバの国家的洗脳の結果とみるか、その両方とみるかは意見が別れるところだろう。それは専門家に任せておく。素人の僕は、そもそも政治を良いものと悪いものの2元論で捉えることはしたくないので、よその国を旅するときは政治から切り離し、街の人の姿だけを見ることにしている。そして、この日のサンティアゴ・デ・クーバの路上で出会った人たちは、それぞれのメッセージを掲げながら、心の底から楽しそうな顔をしていたということだけは事実。

 原発事故やウォール街占拠をきっかけに日本でも路上に出てメッセージを訴える行為が増えているし、その運動はもっと盛り上がるべきだと思う。どんな社会にしたいかというそれぞれの思いと、それをメッセージとして訴える場所である路上は、そもそも誰かに管理されるものではないのだし。


 
 この日のサンティアゴの路上は、陽が沈むまでダンスフロアと化していた。僕はこの余韻を(これを書いている今でも)引き摺りながら、その翌日の深夜バスでキューバ島の中部の静かな田舎街トリニダーへと向かう。