南相馬。夏、馬が駆ける。

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夏の記憶の断片。遅々として進まぬパキスタンの話は一旦置いて。

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灼熱の西日本から、未だ梅雨が明け切らない北国へ飛んだ7月の終わり。辿り着いた南相馬の原町は、馬が道のど真ん中を元気よく走り回っている。アスファルトを叩く蹄のカッポカッポという音が街中に心地よく響く。いつの間にか僕らにとって大事な場所になった「まちなかひろば」では、相馬野馬追の前夜祭となる「NOMA LIVE」の真只中で、ディネードやキビタンらの活躍を眺めつつ、寒さに耐えながらビールを飲んだ。日中から降ったり止んだりを繰り返していた雨は、暗闇が訪れ、近くの旭公園から艶やかな山車が出発し、いよいよ祭りが盛り上がろうかとする頃、突然の豪雨に変わった。雷がすぐ耳元で轟き、爆音とともに何処かに落ちる。散歩していた僕らが慌ててまちなかひろばに引き返すと、客を店の中に避難させながら、それでもギリギリのところでライブが行われていた。近くの公園で予定されていた盆踊りの中止の連絡が入り、ずぶ濡れになった人は駅に向かって走り去っていく。湿ったシャツに体温を急激に奪われながらも、流れ続ける音楽に救われた。気が付けば、さんざん大暴れした雨と雷が落ち着いた。いつもの友人達と、気合で飲み続けた数名の客とがわいわいと盛り上げるなか、浪江町出身の歌手がトリを飾って、時刻は21時。スタッフも客も関係なく片付けに走り回り、そのまま打ち上げに変わる。乾杯の挨拶の「ここの人たちの頭のネジが10本くらい外れていることも、すっかり全国区となりまして」という言葉は誇張でも何でもない。その力強さに惹かれて、全国から人が集まってくるのだ。

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翌日。天気は奇跡的に回復した。厚い雲の合間から太陽も夏の顔を少しだけ見せてくれている。昨日の酒が抜け切らないなか、朝早く起き出した。この日が相馬野馬追いのメインの日。相双の各地から馬に乗って集まってきた武者は、巨大な隊列をなして祭場へと行進していく。僕はちょうど、知り合いの屋台のお手伝いをしていたのだが、馬がやってくると、みんな仕事を放り出した。騎馬は、それぞれの家に代々伝わる旗を掲げてやってくる。落ち着いて優雅に歩く馬もいれば、年に一度の見せ場に奮い立ち、目をひんむいて今にも暴れ出しそうな馬もいる。

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僕も店の手伝いも忘れて行列を眺めていると、1頭の騎馬が目の前で立ち止まった。見事な甲冑に身を包んで馬の背に乗った男が、大きな声を出した。

「ご観覧いただいている皆様方に申し上げます。相馬野馬追執行委員長の桜井和伸であります!」南相馬市の桜井市長だ。そうして始まった口上を、友人が偶然録画していた映像から、一言一句そのまま書き表す。

「本年の相馬野馬追は、東日本大震災にも負けない、原発事故にも負けない、相馬のもののふの堂々たる進軍をご覧頂きたい。なお、今後とも皆様方には、相馬地方の復興にご尽力いただきますようお願い申し上げます。重ねて…(観客の拍手と歓声で遮られ)、重ねて、ご支援をいただきますようお願い申し上げ、ご挨拶といたします。以上!」

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そして桜井市長を乗せた馬は堂々と歩いて去っていった。これを目の前で見ていた僕は、目が涙で溢れそうになり、それを誤魔化すために、「いやー、すごいねー、こりゃー、すごい」と騒いでいたのだが、そうでもしていなかったら涙がこぼれていただろう。前日のまちなかひろばで、野馬追への思いもいろいろ聞いていた。平将門から受け継がれるこの行事、海沿いで飼っていた馬は津波で流され、飯舘の馬は泣く泣く見放され、でも、日本中からの支援もあって馬が集められたこと。そして、ようやくこの2013年、ほぼ震災前の頭数まで祭りの規模を戻すことができたこと。それでも、まだ浪江や双葉、大熊からは参加できないところも多くあること。そんな話を思い出しながら、桜井市長の口上が頭の中をぐるぐるぐるぐる回るのだった。

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祭場では、甲冑競馬、神旗争奪戦と執り行われ、大盛り上がりの中、この日の野馬追の行事が終わった。夕方、まちなかひろばに顔を出すと、いつの間にか宴会が始まり、隣の魚屋で買ってきたカツオとタコの刺し身をアテに、いつもの馬鹿な話で盛り上がる。その数日後、東北地方の梅雨明けが発表された。北国の爽やかな夏がやって来たのだ。

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2年目の3月11日と、旅に出る理由。

その前の金曜日は青森でまっちゃんと僕の酒癖悪い2TOPが結成された。市内の居酒屋を攻めまくった結果、あえなく完膚なきまで叩きのめされたようだ。翌朝気が付けば、パンツ一丁でホテルのベッドにぶっ倒れていた。口の中がカラカラで、なぜか枕元に転がっている見覚えのない銘柄のミネラルウォーターを一気に飲み干し、鈍い頭を巡らす。やはり、3軒目あたりからの記憶はない。いつもながらよく無事に生還できたものである。ただ、最近は日本酒と一緒にお冷を飲むことを学習したので、二日酔いはそれほどでもない。うん、なんとかなりそうだ。

新幹線で盛岡、そしてレンタカーを借り、東北自動車道から釜石方面へと抜けた。去年の夏の時点では花巻を過ぎた当たりで突然終わっていた釜石道が、いつの間にか延伸している。ピカピカの道路で遠野の手前まで。さらに山を越えると、海沿いの釜石は春のような陽気だった。お昼時の新華園は混雑していたが、幸運なことにカウンターの席が空いていた。無造作に置かれていた「鶴瓶の家族に乾杯」のサインを眺めながら、出汁の旨味がたっぷりの釜石ラーメンを食す。

昼食を終えたところで、大船渡の漁師さんに電話をした。待ち合わせ場所に、彼は少し遅れてやって来た。9月以来の久しぶりの訪問だったので、お互いの進捗の確認など。新しいことをどんどん進めていく漁師さんなので、話をしているだけでついつい刺激を受ける。去年の5月の大船渡への初訪問以来、紆余曲折ばかりの今の仕事。これからどうなるかはわからんけれど、北三陸を中心に仲間も増えてきたし、あとは一歩ずつ進んでいくしかないわな。この日は大船渡に宿が取れなかったので、内陸の水沢までの移動となった。陸前高田を経由する。ここも何度も訪れているが、瓦礫の片付けもかなり進んでいる。しかし、片付けが進んだ結果、広大になった更地に寂しさを掻き立てられ。

そして、山道を迷いながら走ること2時間半でようやく宿へ。盛岡に戻っても所要時間はたいして変わらなかったかもしれない。

翌日は、一関経由で気仙沼まで出て、国道45号線をひたすらに南下する。このルートは去年の9月に走ったが、悪い意味でほとんど変わっていない。2年の間に進んでいるのは他所者の忘却だけか。南三陸町歌津の復興商店街ではワカメ祭りを開催していた。こういうところでお金を使わないいかんのに、ワカメのしゃぶしゃぶやワカメ汁が無料で食い放題とかホスピタリティが物凄くて逆に困る。結果、袋入りの生ワカメを買って帰ることにした。三陸の生ワカメは歯応えが素晴らしく、すっかり病み付きである。

志津川、真っ直ぐ歩けないほどの強風の中、防災庁舎に向かって手を合わせる。

そして、石巻から女川まで走った。女川では、最近オープンしたトレーラーハウスの宿泊施設El Faroに泊まった。実は、この宿の存在を知ったのは、行きの東北新幹線の中で読んだ雑誌で。もともと仙台の宿を取っていたのだが、女川にお金を落としたかったので予約を変更した。素敵なスーツのおじさんが迎えてくれ、カラフルなトレーラーハウスが並んでいる。この日は真冬並みの気温と強風で暖房をつけていてもかなり寒い。同じ時を仮設住宅で過ごしている人たちのことを思う。

女川。海沿いは壊滅状態だが、高台に仮設商店街が2箇所できている。夕方、希望の鐘商店街を訪れた。商店街で出会ったおじさんは、「オープンしたてはよかったけど、今では外からのお客さんがすっかり減ってしまって」と嘆いていた。0から1になることはニュースバリューは高いし、人々の注目を浴びる。しかし、その1が、いつになったら2になるか3になるかの見通しなんてないなかで継続していくことが何よりも難しいのだろう。「がんばれ」という言葉はすごく残酷だ。いやいや、志を共にしている人たちには、一緒にがんばりましょうと簡単に言えるけれど、この日に安易に「がんばれ」という言葉を口にすることはできなかった。「また、来ますね」と言って笑顔でお会計をすることしか、僕にはできなかった。

3月11日。女川から仙台を越え、福島県に入る。9月は亘理~山元~新地のあたりは瓦礫は山積みで、工事車両がひっきりなしに行き交う状況だったらが、さすがにだいぶ片付いてきた。そして、南相馬の原町区へ。11月のお祭りを賑やかしに行って以来の訪問だったが、まちなかひろばの人たちは温かく迎えてくれた。仕事をしたあと、ちょうど2年のその時刻に合わせ、南相馬でボランティアをしていた仲間と海沿いの慰霊碑に向かった。大阪・石切山のお寺の尼さんの井本さんが中心となって建てたもの。「尊きすべての命に捧ぐ」という文言が刻まれており、地域を限定している訳ではないので、他所者の僕らでも手を合わせやすい。お花を買ったり、復旧工事が行き届いていない未舗装の道に迷い込んだりして、時間がなくなって焦ったのだが、慰霊碑の前には2分ほど前にたどり着いた。14時46分。その時間を告げるサイレンが響き渡る。ただの荒野になってしまったこの場所でしばらく目を閉じ、買ってきた花を手向け、まちなかひろばへと戻った。

もちろんその夜は地元の人たちと飲み、ホテルに戻ったのは朝の3時になった。地震や津波だけでなく、原発事故の三重苦を背負いながらも、この街を何とかしようとする彼等のパワーは凄い。自分のことを振り返ってみれば、数年に一度引越しをする子供時代を送ってきたので、一つの土地に対する激烈な愛情は持っていないから、どこかうらやましくも思う。地元の人が、酔った勢いで、「なんでこっちで仕事するんだ。自分の街でやれよ。俺たちは自分でやるから」と言われ、僕も酔っ払っていたのでちゃんと反論できなかった。翌日、仙台まで車を運転しながらその言葉がぐるぐると頭の中を回っていたけれど、なぜかと問われれば、そこで出会う人たちが好きだからだろうなあと考えていた。震災から2年目の被災地の現状。まだまだ酷い現実は山ほどあるけれど、人がそこにいる限り何かが生まれていて、おそらく僕は、そんな素敵な人たちと出会うために旅をしているようだった。

飯舘村・南相馬市。震災から1年半の節目で。

いんちきジャーナリスト気取りで、先日訪れた福島のことを書こうと思っているのだが、どうしたことか一向に指が進まない。とりあえず写真だけ整理してFacebookに上げてみて、その写真を眺めながら現地で思ったこと感じたことを文章にする作業に取り掛かっていたのだが、書いた文章を読み、なんて表現力がないんだろうと溜息をつきながら、今日もまた削除と入力を繰り返している。

まあ、いいや。書こう。酒の力も借りたことだし。

震災以降、定期的に三陸に足を運ぶ機会ができているのだが、何回も訪れるうちに自分の感覚が麻痺してくるのがわかる。地盤沈下によって海に沈んだままの堤防や、民家が建っていたはずのところに残っている基礎部分や、鉄骨が剥き出しになったまま放置された建物や、積まれたままの巨大な瓦礫の山。そんな光景に見慣れてしまった自分がいるのに気付く。その一方で(もちろん、街によって早い遅いはあるけれど)、仮設の商店街や屋台村は確実に充実してきていて、コミュニティがしっかりと地域に根を下ろしている。そこで出会う人達の話を聞けば、みんな前を向いていて、こちらが逆に勇気をもらうことも多い。自分も、何かのお役に立てるのであれば、今できる仕事を精一杯がんばろうと思っている。


   (↑岩手県大船渡市三陸町、1年半たってもそこは瓦礫の山)

しかし、車を飛ばして福島の飯舘村で見たものは、それとは真逆だった。震災の被害なんてほとんどないから、山の間にあるのは、昔からほとんど変化もないだろう素朴な集落。しかし、そこには「人」がない。車を降りて「帰還困難区域」となった街を歩けば、稀に行き交う乗用車や、やたらと数の多いパトカーが通り過ぎる雑音を除けば、圧倒的な静寂に包み込まれる。集落を少し離れると、雑草が覆い茂った土地が広がっているが、そこは本来なら野菜や米を植えていたはずに違いない。ところどころ土の表面が削られており、除染作業に四苦八苦していることが伺える。「人」が離れてから経ったのは1年半の月日だけ。

青森・岩手・宮城の被災地域も渡り歩いた上での決定的な違和感。それは、復興の中心となるべき「人」の非存在ということだ。飯舘村の翌日に訪れた南相馬市の小高区でも同じことを感じる。南相馬市小高区は福島第一原発から20km圏内にあり、数カ月前にようやく警戒区域が解除された地域に当たる。9月半ば、まるで真夏のような猛烈な日差しの中で車を走らせる。国道から少し海沿いに行ってみると、道路は崩落したまま放置されていて、通行止めの標識だけが目立っている。表面がボコボコの道路、干乾びた田んぼの中には誰かの車が突き刺さっている。休日だったこともあるだろうが、復興どころか復旧のための工事もほとんど行われていない。サギやカラス等の肉食の鳥が傍若無人にに振る舞っている。

小高区の山側にある住宅地は、揺れで大きく傾いた建物が手付かずのまま放置されている。人の気配のない街を走り、JR常磐線の駅を見つける。打ち捨てられたままのその駅では、1年半分の雑草が覆い被さっていた。眩しい日差し、美しいはずの草木の緑。でも、そこには何かが確実に欠落している。

南相馬で一泊して、たまたま入った焼き鳥屋。知り合ったお父さんは、一緒に住んでいたお孫さんが遠くに避難しているそうだ。別のお父さんは、20km圏内の小高から来て、今は仮設住宅に住んでいるとのこと。瓦礫の撤去のボランティアをしているお兄ちゃんとも一緒に飲んだ。焼き鳥は美味しいし、お酒は美味しいし、それはそれで凄く楽しいのだが、なんだろう、このアンバランスさ。放射能の危険性というよりも、自分にとっては、震災にプラスされた原発事故によって引き起こされたコミュニティの分断・崩壊が何よりも重くのしかかる。

旅の移動中、七尾旅人の“Little Melody”をずっと聞いていた。同世代ということもあって、デビュー当時から聞いてきた歌い手だが、自身の内面に深く入り込むような音楽をやっていた彼が、外とのコミュニケイトの塊のようなアルバムを出したこと自体が驚きだった。聞きながらふと思い出したこと。7月に坂本龍一がプロデュースしたNo Nukes 2012というイベントで、七尾旅人がライブ中で残した「福島のことを考えたら、単純に“No”とは言いたくないんだよね(うろ覚え)」という言葉の真意が、少しだけだけれども、わかったような気がする。その場所でずっと生きてきて、現に今も生きている人の姿を見ると、“No”という一言では零れ落ちるものがたくさんあることを感じる。

だからというわけではないのだけれど、11月3日土曜日、もう一度南相馬に行って、ちょっとおもしろおかしいことをやろうと思っています。それは糞ほどに微力でしかないのだが。でも、今の自分の気持ちは、“Little Melody”に収録された“Memory Lane”、最後の、七尾の「イェー」という希望に満ちた叫びと共振しているものと勝手に思っている。まあ、センチメンタルな酔っ払いの勘違いならそれで構わないけれど。

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