ヘブロン、その1。シュハダ・ストリートは開かれるか?

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ベツレヘムから30kmほど南に行ったところにヘブロンという街がある。名前も知らなかったこの街に行くことを決意したのは、旅の半年くらい前、岩手県の小さな老舗居酒屋に一人でふらりと入ったとき、偶然カウンターで飲んでいたおじさんと話をしてからだ。日本赤十字社で働く彼は、仕事柄世界中を回っていたので、必然的に旅の話で盛り上がる。僕がパレスチナに行きたいことを告げると、彼は、空になったお銚子を眺め、この日何本目かの熱燗を頼んだあとで、ヘブロンに行くことを薦めてくれた。「そこに行けばイスラエルがパレスチナに何をしているかがわかる」と彼は言い、来たばかりの熱燗をお猪口に注ぐ。僕は、酔って忘れないようにと、街の名前を頭に刻み込んだ。その4文字の名前は、特別な雰囲気を持っているようにも思えたものだ。

底冷えのするベツレヘムの朝、旧市街のターミナルからセルビスを2本乗り継ぎ、1時間ほどでヘブロンに着いた。既に太陽は高く上がり、ポカポカと暖かい。通りは車や人で溢れ、食堂や雑貨屋が軒を連ねている。朝からコーヒーしか口にしていなかったので、シュワルマを買って、かぶりつきながら旧市街を目指して歩いた。しばらくすると、スークの入り口を見つけた。その周りには屋台が並んで、色鮮やかな果物や野菜が山のように積まれている。奥へ奥へと細い通りをどんどん進んでいくと、「コンニチワ」と声を掛けられたので思わず立ち止まって振り返った。背の高い男が笑顔で手を差し出した。日本語が堪能と言うわけではなかったが流暢な英語を話す彼は、ウクライナの大学に留学してエンジニアとなり、オマーンで日系企業のプロジェクトで出稼ぎをしていたため、簡単な日本語の挨拶を覚えていたらしい。出稼ぎ期間が終わり、故郷のヘブロンに戻ってきたものの、エンジニアとしての仕事はなく、ここでガイドをしているそうだ。信頼できそうだったし、この街のことを深く知りたかったので、彼にガイドを頼むことにした。

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ヘブロンの街は、イスラエルが軍を撤退するとした「オスロ合意」の例外であり、パレスチナ自治区にありながら、現在に至るまでイスラエルの占領が続けられている。占領状態を正当化するため、別に「ヘブロン合意」が結ばれ、一つの街がパレスチナ側の「H1」と、イスラエルが支配する「H2」とに分断された。彼は、これ以上「合意」は要らないと言う。オスロ合意があって分離壁が建ち、ヘブロン合意があって街が分断された。「合意」があるたびに状況は悪くなる。無理矢理「合意」させられているだけではないかと、彼は考えている。

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「H1」と「H2」との分断により、賑やかだったシュハダ・ストリートは封鎖された。通りは無機質な金属のフェンスで塞がれ、イスラエル兵の検問を越えるとそこは「H2」となる。僕は兵士にパスポートを見せて検問を通った。若い兵士にパスポートを差し出すと、僕を訝しげに見て、とっとと行けというようにジェスチャーする。検問の内側にも建物が並んでいるが、全く人の気配がない。検問は嫌がらせのように不定期に閉まり、検問の内側の住民は買い物に自由に出かけることもできないため、住民のほとんどは出て行ってしまったらしい。賑やかなヘブロンのど真ん中に現れたゴーストタウン。道をさらに行くと、真新しいユダヤ人入植者のための建物が見えていたが、ガイドの彼を待たせていたので一旦検問の外側に戻った。「シュハダ・ストリートを開けろ」というメッセージが刻まれたコンクリートブロックが、検問の傍らに転がっている。シュハダ・ストリートはいつ開かれるのか。

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旧市街の中心に位置するモスクを目指して旧市街を歩く。本来の旧市街は路地が迷路のように入り組んで構成されているが、H2に繋がる路地は、全て分厚い壁で封鎖されている。ガイドが指差す先を見ると、突如ゲートが開いて、銃を携えた兵士が数人こちらにやって来た。人々の間に緊張感が走ったのがわかる。彼らは、何を不審に思ったのか知らないが、普通に歩いていた人を呼び止め、IDを確認しているようだ。その様子を見て、さっきまで道端で笑顔でオレンジを売っていた親爺が血相を変え、兵士に向かって指を振って「ラー(No)!ラー(No)!ラー(No)!」と、怒りを込めた声で叫ぶ。ガイドの彼は空虚な表情を浮かべ、僕らはその場を後にする。オレンジ売りの親爺の声は、僕の頭からしばらく離れない。

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ベツレヘム、その2。分断する壁、投げつける花束。

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翌日、自然と朝早く目が覚めた。空はようやく白み始めたころ、ピリリと冷たい空気の旧市街を散歩する。しばらく歩いたところで淹れたての温かいコーヒーを路上で買い、熱いそれをちびちびと飲みながら地図を見ると、どうやら、あの「壁」の近くまで来ているようだ。旧市街を出て、車が行き交う大きな道をどんどん歩いて行くと、巨大な灰色の壁が聳え立っているのが見えた。その灰色に近寄ってみれば、それはキャンバスとなり、華やかな芸術祭りが催されている。

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灰色の壁は、「アパルトヘイト・ウォール」とも呼ばれ、パレスチナ自治区とイスラエル占領地とを分け隔て、人と物の自由な往来を妨げる役割を担っている。第1次中東戦争の停戦ラインよりも明確にパレスチナ自治区側に喰い込んで建設されているので、イスラエルの占領地を不当に広げていることは周知の事実である。一方、パレスチナ側の文化的な抵抗運動にとっては、この壁は格好の素材だった。さまざまなアーティストがここを訪れ、灰色の壁に作品を残しては去って行った。緻密で美しい壁画が、ただの醜悪な落書きに上書きされていたりもするけれど、そんなことは作者にとっては織り込み済みだったろうと思う。キャンバスは誰しもにとって開かれた存在であり、綺麗に保存されていないからこそ帯びる美しさというものもある。

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壁のグラフィティを見ながら歩いていると、壁のすぐ対面に「Banksy’s shop」という名の小さな店を見つけた。店の軒先に描かれた絵の中の男は壁に向かって花束を投げつけているように見える。まだ開店準備の最中だったが、若い兄ちゃんが温かく迎えてくれる。「この店には何があるの?」と聞くと、「Everything!」という答えが返ってきた。Banksyの作品をあしらったTシャツやパーカー、ステッカーからキャンドルまでが並べられている。正直言うと、どれも品質は高くはない。おそらく地元で勝手に作られたものがほとんどだろうが、Banksyの活動はそれを是とするはずだ。金儲けだけが著作権の目的ではないのだから。気に入ったTシャツと、パレスチナ自治区の障害者が作っているという立派なキャンドルを買った。

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てっきり、Banksyの作品は全てこの壁に描かれているものだと思っていたが、必ずしもそうではなく、この街に点在しているらしい。店の兄ちゃんに、「じゃあ、女の子が風船に掴まって壁を越えようとしているグラフィティはどこ?」と聞くと、なんだそんなことも知らないのかと言うようにニヤリと笑みを浮かべ、店の前の壁を指差した。他の落書きに埋もれてしまっているし、想像していたよりも小さい女の子だったが、その存在感は特別なものがある。じっと眺めていると、風船を握り締めた女の子が目指しているのは、単に壁の向こう側ではなく、抑圧のない別の世界であるようにも思えてくる。

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最も有名な壁画の一つは、ベツレヘムの中心部から少し離れた、ベイトサフールという街にある。ベツレヘムのバスターミナルに歩いて戻り、運転手にBanksyの壁画を見に行きたいと告げると、乗るべき車を教えてくれた。バスがターミナルを出発すると、10分くらいで降ろされた。そこは何の変哲もない長閑な街並みで、ふと振り返ると、小さな車の整備工場の壁に、巨大なあの絵が描かれていた。男が投げつけようとしているのは、爆弾でも火炎瓶でもなく、鮮やかな花束。穏やかな冬の日差しの中、遠くから近くから眺めた。壁画のある工場に入ろうと思い、その場にいた親父に許可を求めると、旅行者が来るのに慣れているようで、好きにすればいいというように肩を竦めた。

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夕方、点在するBanksyの他の壁画を見ながら、再び壁に向かった。大通りから壁に向かって西へと歩くと、アイーダ難民キャンプがある。ここでは、ベツレヘム中心部の観光都市の雰囲気は微塵も感じない。壁には、人々の怒りが爆発した跡が生々しく残っている。この跡は、 僕がいた当時1年も経っていないものだったらしい。どんなグラフィティよりも直接的な表現であるのと同時に、どれだけの血が流れたのか、ふと頭をよぎる。

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さらに、イスラエル占領地に通じるチェックポイントまで壁伝いに歩いた。平日の夕方、人の往来が多くて混雑する時間。長い列をなしていた車の間をすり抜ける。壁の隙間を行き来しようとしている車からは苛立ちを感じることはなく、ごく日常的な風景に見えた。列をなした車には新聞や飲み物を売る人々が集まっているし、徒歩で壁を越えるチェックポイントの前は、即席の市場となって出店が並んでいる。人々はたくましく、ただで転ぶ訳はないのだった。

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この道の先に続くエルサレムの旧市街。この壁の向こう側に、つい数日前確かに僕はいた。それはほんの数キロの距離だけれど、今ではその何百倍もの距離を感じている。そして、さまざまな抵抗の手段がここにはある。僕は、壁に投げつけるものは花束であって欲しいしと願うし、投げられた花束は僕らが受け止めなくてはならない。その花束はいつかこの壁を穿つと信じる。

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ベツレヘム、その1。クリスマスの余韻は調子外れのアラブ歌謡に乗せて。

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短い滞在だったジェニンに別れを告げ、セルビスに乗り込んだ。来た道を戻って2時間ほどで、大都市ラマッラに着き、ベツレヘム行きのセルビスに乗り換える。パレスチナ北部の中心都市であるラマッラと、南部の中心都市であるベツレヘム。直線距離では僅か20kmのこの2つの街は、カランディラの検問を境として完全に分断されている。悪名高いその検問所を越えることは現地の人々にとって容易ではない。ラマッラとベツレヘムとの間を結ぶセルビスは、大きく西側に迂回して走ることになる。ラマッラを発った満員のセルビスは、幹線道路から険しい山道に入り、住宅街の細い通路を抜け、2時間ほどを要してベツレヘムに至った。この小さな国の中で、今も、人は自由に移動すらできないでいる。

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ベツレヘムの街はイエス・キリストが誕生したことで知られ、世界中から多くのクリスチャンが集まる一大観光都市だ。僕が訪れたのはクリスマスを数日過ぎたころだったが、街の中心となる旧市街は休暇中の欧米人の旅行者で賑わっていた。混雑を見越して事前に予約していた旧市街の外れの小綺麗なユースホステルは、まだクリスマス特別価格を請求されて割高だったが、エルサレムほどのぼったくり感はなく、居心地よく過ごすことができた。

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ベツレヘムは坂の街でもある。薄茶色に統一された建物が集まる旧市街で、階段を昇ったり降りたりしながら、僕はいつのもようにふらふらと彷徨うのだった。迷路のように建物が並んだ小道を抜け、ふと見晴らしのよい場所に出れば、冬の美しく澄んだ空を背景に、さまざまな宗派の教会やモスクから、個性的な造形の塔がいくつも伸びている。気が付くと街の中心にあるメンジャー広場に戻っていた。キリストが産まれた場所に建てられた生誕教会は、夕闇が迫る頃になっても観光客で混雑している。広場の真向かいには、街で一番大きくて古いモスクがアザーンを鳴り響かせていて、こちらも礼拝者で賑わっている。その逆側には、ド派手なクリスマスツリーが飾られていて、隣に用意された特設ステージでは、どこかの歌手が、アラブ風の歌謡曲を歌っている。まるで浅い夢のように、目の前の世界は断片的で支離滅裂だ。

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日が沈むと、空気が急に冷え込む。濃くて熱いアラブコーヒーを買ってちびちびと飲みながら、歌謡曲のステージをぼんやりと眺めていると、土産物売りの少年がやってきた。穏やかな目をした彼は、しつこく売り込むつもりは無さそうだったので、僕らは少し世間話をする。パレスチナ人の彼は、自分はクリスチャンだと言った。「この街では宗教が違っても皆仲良くやっているんだ。神様はみんなのものだから」そんな言葉は、コーヒーよりも、心と体を温めてくれた。まだまだ夜はこれから。街は少し浮かれた気分で、クリスマスの余韻を楽しんでいる。

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