インドネシア、ジャカルタ

インドネシアの首都・ジャカルタでは、ジャラン・ジャクサという街に滞在した。ちょうどこの日はイスラム教の祝日である犠牲祭の前日にぶち当たり、通常であれば車で30分の道のりだったのだが、4時間以上かけても未だ目的地につかないという壮絶な大渋滞に巻き込まれた。道路一面を埋め尽くしピタリと動かない車の列からは、焦りや怒りは既に通り越し、諦めに似た感情が渦巻いている。せかせかと生きていては、この国ではやっていけない。のんびり行くのだ、のんびりと。30 kmを4時間かけて。

ジャラン・ジャクサは、その昔は安宿が多く、貧乏バックパッカーの溜まり場として栄えたようだが、今ではすっかり寂れていて、営業しているのかどうか怪しいホテルやレストランも多く見かけられる。外国人の姿もそう多くはない。バリのデンパサールも国際線が多く発着しているので、よっぽどの理由がなければ、巨大都市・ジャカルタよりも、穏やかなバリをゲートシティとして選ぶのだろう。急激に人とお金が入り込んできた現在のジャカルタは宿命的な過渡期にあり、矛盾がそのまま混沌という形でさらけ出されている段階のように思う。

それでも、ジャラン・ジャクサの大通りから一歩足を踏み入れると、一気に時間軸がずれる。人がすれ違うのがやっとの細い路地が碁盤の目のように張り巡らされていて、小さなモスクがあちらこちらに点在している。巨大な張りぼてのコンクリートばかり見上げていたので、生活感溢れるこんな路地を歩くだけでホッと一息ついた。犠牲祭は、イスラムの大切な祝祭だ。家々の軒先では、犠牲祭の食事のために、男たちが忙しく山羊や牛を捌きたおしている。捌かれた肉は、貧しい人々に与えられる。捌かれた山羊や牛から流れた血の鮮やかな赤い色が細い路地を染めるなか、子供たちは外で走り回り、ネコは日影であくびをする。急激な変化が著しい今のジャカルタで、僕が唯一落ち着くことができるのは、昔から変わらないであろうこんな風景を眺めているときだった。

インドネシア、クパン

とにかく広いインドネシアの東に位置するティモール島。ここの島からさらに東に行けばパプアで、南に行けばオーストラリアのダーウィンである。だから、ティモールは、アジアの文化圏の最果ての地と言ってもいいかもしれない。10月。滞在したのはティモール島の中心となる街クパン。小ぢんまりとした空港を出れば、ジャカルタやボゴールのあるジャワ島とは打って変わり、鮮やかに晴れた空と乾いた大地が広がっていた。こちらの雨季の始まりは、ジャワ島から1、2ヶ月遅れるうえに降水量も比較的少ない。海から吹く強い風がなかなかに心地よく感じる。

ティモール島の東半分は、10年ほど前にインドネシアから東ティモールとして独立した。現地の方から話を聞くと、島の西端に位置しているクパンは、東ティモールとは最も距離が離れているといえども、当時は暴動に巻き込まれたらしい。その原因は、独立運動からなぜか飛び火したイスラムとキリストの宗教的な対立だったという。そもそも、たった一つのティモール島を、東ティモールに属する東側と、インドネシアに属する西側とに分け隔てたものは、植民地時代の統治国がオランダだったかポルトガルだったかの違いに過ぎない。植民地返還が遅れた東側に対して、スハルト時代のインドネシアが軍事的に押さえつけたことから反発が生じ、さらに、カソリックとプロテスタントという統治国の宗派の違いが溝を深めた。勝手に島を分割することがなければ、そもそも植民地支配がなければ、こんな馬鹿げた対立は生じていなかった。支配が形式的に終わった後も、その爪痕は今でもくっきりと残っていて、死ななくていいところで人が死んでいる。この土地ではほんの10年前に、そして今も世界のいたるところで。

もちろん、現在の穏やかなクパンからは、そんな悲しい事実を想起させられることはない。狭く凹凸の激しい道路を埋め尽くす車やバイクに少し辟易しながら街を歩けば、ギラギラと照りつける太陽の下で人やネコはのんびりと暮らしている。海沿いの通りでは、夕方になると一面に屋台が立ち並ぶ。鮮度を若干心配しながら、無造作に並べられ魚の中から好きなものを指差すと、甘辛いタレをたっぷりつけて焼いてくれる。

魚をアテにビールを飲んでいると、10人くらいの若者の集団が通りかかった。一見したところ、年齢は10前後から10代後半で、全員が粗末な服に身を包み、足元はボロボロのサンダルか、もしくは裸足だが、年上の若者は鮮やかな色のモヒカンに古い鋲ジャン(インドネシアで!)という典型的なオールド・スクール・ハードコア・スタイルをしている。大事そうに抱えているのはウクレレサイズのボロボロのアコースティックギター、別の若者は手作りのパーカッションを携えている。彼らは、僕らの席から少し離れたところで立ち止まり、僕らと決して目を合わせることなく演奏を始めた。モヒカンが小さなアコギを弾きながら歌う詞は、「『セレブレティ』は『ファ○キン』で且つ『シ○ト』である」というフレーズを繰り返したもの。3コードの初期パンク風ロックが小さなアコギと軽い太鼓で奏でられるので、どこか間が抜けて陽気に響くが、その中身は直情的なレベル・ミュージックなのであった。隣に座っていたバカンス中の白人旅行者たちも含め、きっと僕らに向けられた歌なんだと思う。曲が終わると、その集団にいた最年少の子がお金を集めに来たので、少額の紙幣を渡す。モヒカンは、最後までこちらに視線を向けることなく、新しい演奏場所に向かって夜の街に消えていった。明るい日差しと美しい海に彩られたクパンとは真逆の、貧しさ、やり場のない怒り、そして、その全てをぶつけた音楽と。あのモヒカンの眼には、いったい何が映っていたのだろう。

インドネシア、ボゴール

インドネシア。混沌という言葉をそのまま体現したような巨大都市・ジャカルタから数十キロ内陸に入ったボゴールは、世界最大の植物公園が有名で、元大統領の別荘もあることからわかるように、ジャカルタより遙かに過ごしやすい郊外の街である。

ジャカルタの空港からボゴールまではジャカルタの中心部を貫いた高速道路で繋がっていて、スムーズに流れれば1時間で着くのだが、このルートは慢性的な混雑に見舞われている。場合によっては空港から5時間かかることもあるとのことだった。1時間に10kmという計算なら僕のジョギングの方がよっぽど速い。ジャカルタは今や、東京に続き、都市圏人口は世界2番目となっているのだが、増え続ける人口に対してインフラの整備が全く追いついていないから、ジョギングが車に勝つことになってしまう。空港で捕まえたタクシーの運転手には、最初3時間かかると脅されていたが、ちょうどこの日は世間的には休日だったこともあって、すんなり1時間でホテルに着いた。

とは言いつつもい、ボゴールも中心部は人や車で溢れ返っている。ナシゴレンやミーアヤムの屋台や、暇そうに客待ちをしているサイクルリクシャーや、安物のギターを片手に演奏してチップをねだる若者や、学校帰りで元気が有り余っている子供たちを掻き分けながら街を歩いた。空気は水分をたっぷりと含んで肌にべったりとまとわりつく。もうすぐ雨季がやってくる。