飯舘村・南相馬市。震災から1年半の節目で。

いんちきジャーナリスト気取りで、先日訪れた福島のことを書こうと思っているのだが、どうしたことか一向に指が進まない。とりあえず写真だけ整理してFacebookに上げてみて、その写真を眺めながら現地で思ったこと感じたことを文章にする作業に取り掛かっていたのだが、書いた文章を読み、なんて表現力がないんだろうと溜息をつきながら、今日もまた削除と入力を繰り返している。

まあ、いいや。書こう。酒の力も借りたことだし。

震災以降、定期的に三陸に足を運ぶ機会ができているのだが、何回も訪れるうちに自分の感覚が麻痺してくるのがわかる。地盤沈下によって海に沈んだままの堤防や、民家が建っていたはずのところに残っている基礎部分や、鉄骨が剥き出しになったまま放置された建物や、積まれたままの巨大な瓦礫の山。そんな光景に見慣れてしまった自分がいるのに気付く。その一方で(もちろん、街によって早い遅いはあるけれど)、仮設の商店街や屋台村は確実に充実してきていて、コミュニティがしっかりと地域に根を下ろしている。そこで出会う人達の話を聞けば、みんな前を向いていて、こちらが逆に勇気をもらうことも多い。自分も、何かのお役に立てるのであれば、今できる仕事を精一杯がんばろうと思っている。


   (↑岩手県大船渡市三陸町、1年半たってもそこは瓦礫の山)

しかし、車を飛ばして福島の飯舘村で見たものは、それとは真逆だった。震災の被害なんてほとんどないから、山の間にあるのは、昔からほとんど変化もないだろう素朴な集落。しかし、そこには「人」がない。車を降りて「帰還困難区域」となった街を歩けば、稀に行き交う乗用車や、やたらと数の多いパトカーが通り過ぎる雑音を除けば、圧倒的な静寂に包み込まれる。集落を少し離れると、雑草が覆い茂った土地が広がっているが、そこは本来なら野菜や米を植えていたはずに違いない。ところどころ土の表面が削られており、除染作業に四苦八苦していることが伺える。「人」が離れてから経ったのは1年半の月日だけ。

青森・岩手・宮城の被災地域も渡り歩いた上での決定的な違和感。それは、復興の中心となるべき「人」の非存在ということだ。飯舘村の翌日に訪れた南相馬市の小高区でも同じことを感じる。南相馬市小高区は福島第一原発から20km圏内にあり、数カ月前にようやく警戒区域が解除された地域に当たる。9月半ば、まるで真夏のような猛烈な日差しの中で車を走らせる。国道から少し海沿いに行ってみると、道路は崩落したまま放置されていて、通行止めの標識だけが目立っている。表面がボコボコの道路、干乾びた田んぼの中には誰かの車が突き刺さっている。休日だったこともあるだろうが、復興どころか復旧のための工事もほとんど行われていない。サギやカラス等の肉食の鳥が傍若無人にに振る舞っている。

小高区の山側にある住宅地は、揺れで大きく傾いた建物が手付かずのまま放置されている。人の気配のない街を走り、JR常磐線の駅を見つける。打ち捨てられたままのその駅では、1年半分の雑草が覆い被さっていた。眩しい日差し、美しいはずの草木の緑。でも、そこには何かが確実に欠落している。

南相馬で一泊して、たまたま入った焼き鳥屋。知り合ったお父さんは、一緒に住んでいたお孫さんが遠くに避難しているそうだ。別のお父さんは、20km圏内の小高から来て、今は仮設住宅に住んでいるとのこと。瓦礫の撤去のボランティアをしているお兄ちゃんとも一緒に飲んだ。焼き鳥は美味しいし、お酒は美味しいし、それはそれで凄く楽しいのだが、なんだろう、このアンバランスさ。放射能の危険性というよりも、自分にとっては、震災にプラスされた原発事故によって引き起こされたコミュニティの分断・崩壊が何よりも重くのしかかる。

旅の移動中、七尾旅人の“Little Melody”をずっと聞いていた。同世代ということもあって、デビュー当時から聞いてきた歌い手だが、自身の内面に深く入り込むような音楽をやっていた彼が、外とのコミュニケイトの塊のようなアルバムを出したこと自体が驚きだった。聞きながらふと思い出したこと。7月に坂本龍一がプロデュースしたNo Nukes 2012というイベントで、七尾旅人がライブ中で残した「福島のことを考えたら、単純に“No”とは言いたくないんだよね(うろ覚え)」という言葉の真意が、少しだけだけれども、わかったような気がする。その場所でずっと生きてきて、現に今も生きている人の姿を見ると、“No”という一言では零れ落ちるものがたくさんあることを感じる。

だからというわけではないのだけれど、11月3日土曜日、もう一度南相馬に行って、ちょっとおもしろおかしいことをやろうと思っています。それは糞ほどに微力でしかないのだが。でも、今の自分の気持ちは、“Little Melody”に収録された“Memory Lane”、最後の、七尾の「イェー」という希望に満ちた叫びと共振しているものと勝手に思っている。まあ、センチメンタルな酔っ払いの勘違いならそれで構わないけれど。