2012年、トルコ、カルス、その2。

カルスの市街地から車で1時間ほどいったところ、アルメニアとの国境ギリギリにあるのがアニの遺跡である。昔から遺跡にはさして興味がないのだが、わざわざアニ遺跡を訪れようと思ったのは、ロンリー・プラネットの写真があまりに素晴らしかったからである。それは、真二つになったドームがだだっ広い大地に建つだけの写真で、その寂寥感と、なんとも言えない美しさに、すっかり心を奪われてしまったのだ。特別に派手な遺跡ではないし、世界遺産のような箔が付いている訳ではもちろんないのだが、結局最後に心に残るのはこんな場所だったりする。

カルスからアニまでの公共の交通機関は皆無なので、自分でタクシーをチャーターしなければならない。晩飯の後でホテルの人に頼んでドライバーに電話を入れてもらうと、別のホテルに泊まっている旅行者が翌日アニまで行く予約をしているという。折角なので、タクシーをシェアさせてもらうことにした。

朝9時、ロビーで待っているとタクシーがやってきた。その後部座席に座っていたのが、柔らかな表情をしたアメリカ人の兄ちゃんのNico。ミュージシャンで、世界中を旅しているとのことだった。タクシーは小さなカルスの街を出て、永遠と続く草原をひた走り、アニ遺跡の入り口に着いた頃は、すっかり日も高く昇っていて、上着を着ていると汗ばむほど。周りには他の観光客の姿もなく、Nicoと一緒に静まり返った入場口でお金を払う。外界と遺跡とを隔てる城壁をくぐり抜けると、広大な草原の中に点在する朽ちかかった建物が、夢の跡で来るはずもない誰かを待っているようだった。

ここアニは、かつてのアルメニア王国の首都であり、11世紀にはシルクロードの宿場町として最盛期を迎えた。1000年の月日はときに残酷である。幾度の戦争や地震をくぐり抜けた結果、今ではすっかりこの調子で、当時の栄華は見る影もなく消え失せた。また、アルメニアとトルコとの関係性は非常に悪く、アニ遺跡を含む土地は、アルメニアが領有権を主張している。トルコ側にとっても、仲の悪い国の昔の首都の遺跡なんて、たいして重要性は高くないのだろう。保存性の高い建造物は数えるほどで、ほとんどが野晒しの状態に置かれている。しかし、無理矢理に綺麗に復元された建造物よりも、自然のままに崩れかけていた方が、逆に美しさを増していたりすることもある。

アニの周囲を流れる川は、長い年月をかけて深い谷を作り出していて、この谷を越えるとアルメニア領だ。カメラを向けるのは憚られたが、谷の向こう側にはアルメニア軍の監視塔が見える。また、遺跡の一部は軍事境界線となっていて、立ち入ることはできない。しかし、その緊張関係とは裏腹に、ほとんど人の気配はなく、数少ない観光客の他は、放牧された牛が国境ギリギリのところで草をついばんでいるだけだ。それはただ、のどかな国境の風景。

アニの遺跡は広大で、ゆっくり歩いて回るだけで、2時間以上はかかる。売店や食堂などあるはずもなく、口にできるものはカルスから持ってきたミネラルウォーターと、日本から持ってきたキャンディのみ。お昼時にもなり、さすがに腹が減ってきた。入口付近でアヒルをいじめて時間を潰していると、遅れて戻って来たNicoは、遺跡で出会った現地の人と意気投合していて、アニからさらに離れた街まで遊びに行くという。誘われたが、カルスでもうちょっとゆっくりしたかったので遠慮しておいた。その後、彼としばらく旅程を共にすることになるとは、その時は全く想像もしていなかったのだが。

カルスの街に戻り、遅めの昼食はカルス名物のチーズをたっぷり乗せたピザを。カルスはチーズとハチミツが名物の、実はグルメの街なのである。街角のチャイハネでのんびりしていると、すぐ隣で民族衣装に身を包んだ子供たちが手を繋ぎ輪になって踊り出した。休日だったし、何かのイベントでもやっていたのだろうか。気が付けば人だかりができていて、そこそこに盛り上がっている。それを遠巻きに眺め、砂糖のたっぷり入った甘いチャイを飲みながら、僕は寒いカルス街の、短くも温かで穏やかな時間を楽しんでいた。