2010年→2011年、ビルマ、ヤンゴン、いや、ラングーン。

 ガバリからヤンゴンへ飛び、1泊して翌日の夜の便で日本に帰る。ここは旅で一番精神的に堪えるときだ。小さくて個性的な街で好きなだけゆっくりした後、帰国のために強制的に立ち寄らされる、その国一番の大都会。ところでビルマ一の大都会「ヤンゴン」は、軍事政権が国名を「ミャンマー」としたときに一緒に変更された新しい名前である。昔の現地の発音に合わせたようだが、「ラングーン」の方が響きがいいと思う。意味は、「戦いの終り/ラングーン」。美しい言葉だねえ。やっぱり「ラングーン」にしようか。道中出会った白人は、みんな「ラングーン」と呼んでいたし。物の本によれば、「ミャンマー」の国名変更にあっさりと従ったのは日本だけという話もあった。

 空港から降り立つとすぐに感じる熱気と排気ガスと騒々しさ。空港でタクシーを捕まえて、下町の安宿を確保したときには日が暮れていた。タクシーを待たせたまま安宿に慌ててチェックインし、急いでシュエダゴン・パゴダに向かう。







 ここはビルマ仏教最大の聖地で、世界一美しいと言われる金色の仏塔が聳える。ラングーンの下町からタクシーで10分程走ったところ、山一個がまるまる寺院だ。山の頂上には、ライトアップされ光り輝く巨大な仏塔と、その周りで跪いて熱心に祈る人々、さらにそれを取り巻く無数の小さな仏塔、所狭と無理矢理に配置された仏像、ケバケバしい電飾。神聖でもあり、一方で猥雑でもあり。仏塔は本物の金で、宝石が埋め込まれているとの情報もあり、決してこの国は貧しくはない。方法が、方法だけが問題なのだ。でも、そんな方法は近い将来、確実に変えることができると信じている。





 パゴダをじっくりと味わった後、チャイナタウンへと向かう。目的はもちろん屋台。そうだ、このために東南アジアを旅しているようなものだ。細い路地を占領するように店が立ち並び、どこも生ビールを飲む若者で埋まっている。地元の人を見習って生ビールと串焼きと麺をいただく。ここも貧困国のイメージからはほど遠くて、意外と物が溢れているし、夜遅くまで賑やかだ。奴等のパワーは凄まじい。





 ビルマの最終日。ラングーン市内をぷらぷらと歩く。コロニアル様式の建物が残る街並みは東南アジアでは珍しい。カラフルな建物がビルマの強い日の光に照らされて、いっそう鮮やかに映る。世界の潮流から取り残された多文化都市の魅力。パゴダが聳える通り沿いにある、イスラムモスク、ヒンドゥー寺院、中国系仏教寺院。数ブロック歩けば一気に変貌する街の空気、でも建物は全てコロニアル。バンコクとかクアラルンプールとか、急激に成長した他の東南アジアの都市では失われたであろう、むせ返るような強烈な個性がある。






 本音を言えばもう少しだけゆっくりしたかったが、この日の夜の便でバンコクへ飛び、数時間のトランジットの末、翌朝には何事もなく無事に日本に戻ってきた。

最後に少しだけ旅の総括を。

 その1。ラングーン・バガン・インレー湖、これにマンダレーを加えた旅程がポピュラーだが、それぞれの街が悪い感じに離れていて、陸路だと20時間は覚悟のため、日程に余裕がないと辛い。飛行機を選択したが、味気なかったのが正直なところ。
 その2。驚きの白人天国。さすがクリスマスシーズン。宿は意外と高く、飛行機は常時満席。当然、観光は主要産業となっているので、いたるところでお金を回収されるのが腹立つ。入域料はほんと勘弁していただきたい。
 その3。正規の為替レートが使えないので、旅行者は闇両替を利用することになるが、これが著しく不安定。旅行中にドルが急激に安くなって、入国時には1$=900kyat~1000kyatだったものが、帰国時には1$=700kyatまで下がった。何軒か回っても同じだったし、理由が「Independence Dayだから」って意味わからん。というかレートがどうやって決まっているのかわけわからん。
 その4。バガン・インレー湖は有名な観光地で、観光地然とした土地であり、ガバリはリゾートで、リゾート然とした土地であった。そのため、全体的になんとなく不完全燃焼。ビルマの生活の中に入っていくような経験はできなかった要は10日程度では辛い。これはいつも思うことだが、それをより一層強く感じた国であった。
 その5。日本では国名は「ミャンマー」とされている。ただ、この国で古くから根付いた文化や、そこに住む人々を呼称する際は「ビルマ」が使われる。現地でも、自分の国を「ミャンマー」と呼んでも、自分のことは「ビルマ人」と呼ぶ人に多く出会った。自分が旅をする対象は、昔から「国」ではなく「文化」だ。だからこそ、ここでは何の躊躇もなく「ビルマ」という呼称を使った次第。