サン・クリストバル・デ・ラス・カサス。そして、サパティスタの村へと。

サン・クリストバル・デ・ラス・カサス。オアハカからの深夜バスでたどり着いたら朝7時。バスターミナルの隣の屋台で甘いコーヒーをいただき、冷えた身体を少しだけ温めて、近くの公衆電話から事前に控えておいた番号に電話をかける。カサカサという有名な日本人宿だ。何回かのコールの後、日本人の男性が出て、ベッドはいっぱいだがテントなら大丈夫と告げられた。テント?

タクシーを捕まえて、街外れの宿に向かう。石畳が敷かれた旧市街の狭い道をくねくねと走り、舗装が途切れた一角にあるカサカサ(Casa Kasa)。ドレッドヘアのお兄さんに案内されたのは、廊下の端に張られていた一人用のテントだった。サン・クリストバルの街の標高は2000mを越えるため、朝晩は非常に冷え込む。なんらかの熱量保持を全く期待できないそのテント、ここで寝た人は順番に風邪を引いているとのこと。毛布はたくさんあるし、深夜バスの疲れもあったし、細かいことを考えるのはやめた。今日から僕はテントで寝るのだ。

街を散歩する。標高が高いため、空気はひんやりとしているが、日差しが強いので次第に汗ばむ陽気になる。大きな教会や、旧市街の街並みをゆっくりと回った。民族衣装を来た人たちが多い。朝のうちはまだいいのだが、お昼過ぎから街の中心部では細い道に車や人が溢れ、なかなかに疲れる。結局、宿に戻ってビールを飲んだりと、うだうだと過ごす。

さて、ここから車で1時間半ほど山奥へ分け入ったところに、オべンティックという村がある。サパティスタ民族解放軍の自治区だ。サパティスタとは、1994年に先住民の利益を主張して蜂起した組織で、今も活動を続けている。武力を用いず、ネットを利用してメッセージを広く伝えるという手法で、オルターグローバリゼーションの象徴的な存在である。僕は、サパティスタについて語るだけの知識は持っていないので、詳しくは他で調べてもらうとして、ここから先は純粋にオべンティックに行って見てきたことだけを書く。

大量の毛布の下敷きになり厳しい寒さに耐えた翌朝。サン・クリストバルの市場でパンとコーヒーの朝飯を済ませてから、市場のすぐ裏側にあるコレクティーボ(乗り合いタクシー)の乗り場に向かった。客待ちの運転手に「オべンティックに行きたい」と告げると車に案内される。小さなボロ車の助手席には親父が1人、後部座席に別の親父1人座っていて、僕が後部座席に乗り込むとさらにもう1人親父が乗ってきて真ん中に追いやられた。狭い後部座席で親父に囲まれ、縮こまったまま車は出発し、やがて山道に入る。車窓から見える景色は穏やかで、日本の原風景を眺めているかのようだ。後部座席の親父を1人降ろしたあと、さらに小さな村をいくつか経由し、1時間半ほど走ったところで車は停まった。運転手が僕に向かって「降りろ」、と声をかける。少し緊張しながらタクシーを降りると、タクシーはさらに山奥へと走り去った。

人の気配のない山の中。きょろきょろと見回すと、右手に重厚な金属製のゲートがあり、その内側に目出し帽を被った若者が立っていた。昨日から勉強したスペイン語で、「入りたいんだけど」とたどたどしく伝えると、彼はゲートの中の建物に行き、すぐに戻ってきて「しばらく待つように」と言った。ぽかぽか陽気の中、ゲートの前の地べたに座り10分ほど待っていると、今度は目出し帽を被った別の若者が3人やって来た。名前や国籍、職業などを聞かれ、メモを取られる。質問はカサカサの情報ノートにあった通りだったので、スペイン語の受け答えもなんとかなった。最後にパスポートを渡し、再び10分ほど待つ。先程の3人組がやってきて、重いゲートを開け、僕を招き入れてくれた。

オべンティックは、斜面に沿って建物が20~30棟並んだだけの、本当に小さな村だ。ゲートから斜面を下ると、別の建物から目出し帽の年配の男が出てきた。「彼に付いて行くように」と言い、3人組は姿を消した。男が歩き出したので、慌てて僕も付いて行く。軒先では、機織りをする女性や、無邪気に遊ぶ子供をちらほら見かける。建物の壁はカラフルでメッセージ性の強い絵画で彩られ、メキシコ・シティで見たリベラやシケイロスの壁画の精神はここに引き継がれていることがわかる。斜面の一番下にあるのは小学校。クリスマス休暇のせいか、案内役の彼と僕以外に人の姿をみかけることはなかった。

ゆっくりと一周回っても15分もかからない小さな村。案内をしてくれた男は、僕がスペイン語を大して理解できないことを知ってか、それとももともと無口なのか、ほとんど言葉を発することがなかった。ゲート付近の売店まで戻ってきたところで、「これで終わりだ」言って握手をし、男は帰っていった。売店でTシャツとポスターを買い、外に出る。僕とは別に見学を終えたスペイン人の若者と鉢合わせたので、彼と一緒にコレクティーボを拾ってサン・クリストバルの街に戻った。

オべンティックは、男達が目出し帽を被っていることを除けば、山合の小さな村でしかなく、ここが世界中の注目を集めていることが俄には信じられないほどだ。遠く離れた国からインターネット経由で膨らんだサパティスタのイメージとはかけ離れた極普通の村で、極普通の人たちが素朴な生活を送っているだけ。その夜、サパティスタを含めた先住民族を取り巻く厳しい状況は、カサカサに泊まっていた日本人の写真家から聞くことができた。同じ先住民族でも、一つの村で、サパティスタを支持する者とサパティスタを支持しない者とが分断がされ、地域社会が壊れるケースがあること、そして活動を継続することの難しさ。僕も、もっとスペイン語が喋れたら、村の人達と本音の会話ができていれば、また別の姿が見えたのかもしれないが、今はぽかぽか陽気のオべンティックの長閑さが、心の中にしっかりと残っている。そして、この日の夜も廊下のテントでぐっすりと眠った。

2年目の3月11日と、旅に出る理由。

その前の金曜日は青森でまっちゃんと僕の酒癖悪い2TOPが結成された。市内の居酒屋を攻めまくった結果、あえなく完膚なきまで叩きのめされたようだ。翌朝気が付けば、パンツ一丁でホテルのベッドにぶっ倒れていた。口の中がカラカラで、なぜか枕元に転がっている見覚えのない銘柄のミネラルウォーターを一気に飲み干し、鈍い頭を巡らす。やはり、3軒目あたりからの記憶はない。いつもながらよく無事に生還できたものである。ただ、最近は日本酒と一緒にお冷を飲むことを学習したので、二日酔いはそれほどでもない。うん、なんとかなりそうだ。

新幹線で盛岡、そしてレンタカーを借り、東北自動車道から釜石方面へと抜けた。去年の夏の時点では花巻を過ぎた当たりで突然終わっていた釜石道が、いつの間にか延伸している。ピカピカの道路で遠野の手前まで。さらに山を越えると、海沿いの釜石は春のような陽気だった。お昼時の新華園は混雑していたが、幸運なことにカウンターの席が空いていた。無造作に置かれていた「鶴瓶の家族に乾杯」のサインを眺めながら、出汁の旨味がたっぷりの釜石ラーメンを食す。

昼食を終えたところで、大船渡の漁師さんに電話をした。待ち合わせ場所に、彼は少し遅れてやって来た。9月以来の久しぶりの訪問だったので、お互いの進捗の確認など。新しいことをどんどん進めていく漁師さんなので、話をしているだけでついつい刺激を受ける。去年の5月の大船渡への初訪問以来、紆余曲折ばかりの今の仕事。これからどうなるかはわからんけれど、北三陸を中心に仲間も増えてきたし、あとは一歩ずつ進んでいくしかないわな。この日は大船渡に宿が取れなかったので、内陸の水沢までの移動となった。陸前高田を経由する。ここも何度も訪れているが、瓦礫の片付けもかなり進んでいる。しかし、片付けが進んだ結果、広大になった更地に寂しさを掻き立てられ。

そして、山道を迷いながら走ること2時間半でようやく宿へ。盛岡に戻っても所要時間はたいして変わらなかったかもしれない。

翌日は、一関経由で気仙沼まで出て、国道45号線をひたすらに南下する。このルートは去年の9月に走ったが、悪い意味でほとんど変わっていない。2年の間に進んでいるのは他所者の忘却だけか。南三陸町歌津の復興商店街ではワカメ祭りを開催していた。こういうところでお金を使わないいかんのに、ワカメのしゃぶしゃぶやワカメ汁が無料で食い放題とかホスピタリティが物凄くて逆に困る。結果、袋入りの生ワカメを買って帰ることにした。三陸の生ワカメは歯応えが素晴らしく、すっかり病み付きである。

志津川、真っ直ぐ歩けないほどの強風の中、防災庁舎に向かって手を合わせる。

そして、石巻から女川まで走った。女川では、最近オープンしたトレーラーハウスの宿泊施設El Faroに泊まった。実は、この宿の存在を知ったのは、行きの東北新幹線の中で読んだ雑誌で。もともと仙台の宿を取っていたのだが、女川にお金を落としたかったので予約を変更した。素敵なスーツのおじさんが迎えてくれ、カラフルなトレーラーハウスが並んでいる。この日は真冬並みの気温と強風で暖房をつけていてもかなり寒い。同じ時を仮設住宅で過ごしている人たちのことを思う。

女川。海沿いは壊滅状態だが、高台に仮設商店街が2箇所できている。夕方、希望の鐘商店街を訪れた。商店街で出会ったおじさんは、「オープンしたてはよかったけど、今では外からのお客さんがすっかり減ってしまって」と嘆いていた。0から1になることはニュースバリューは高いし、人々の注目を浴びる。しかし、その1が、いつになったら2になるか3になるかの見通しなんてないなかで継続していくことが何よりも難しいのだろう。「がんばれ」という言葉はすごく残酷だ。いやいや、志を共にしている人たちには、一緒にがんばりましょうと簡単に言えるけれど、この日に安易に「がんばれ」という言葉を口にすることはできなかった。「また、来ますね」と言って笑顔でお会計をすることしか、僕にはできなかった。

3月11日。女川から仙台を越え、福島県に入る。9月は亘理~山元~新地のあたりは瓦礫は山積みで、工事車両がひっきりなしに行き交う状況だったらが、さすがにだいぶ片付いてきた。そして、南相馬の原町区へ。11月のお祭りを賑やかしに行って以来の訪問だったが、まちなかひろばの人たちは温かく迎えてくれた。仕事をしたあと、ちょうど2年のその時刻に合わせ、南相馬でボランティアをしていた仲間と海沿いの慰霊碑に向かった。大阪・石切山のお寺の尼さんの井本さんが中心となって建てたもの。「尊きすべての命に捧ぐ」という文言が刻まれており、地域を限定している訳ではないので、他所者の僕らでも手を合わせやすい。お花を買ったり、復旧工事が行き届いていない未舗装の道に迷い込んだりして、時間がなくなって焦ったのだが、慰霊碑の前には2分ほど前にたどり着いた。14時46分。その時間を告げるサイレンが響き渡る。ただの荒野になってしまったこの場所でしばらく目を閉じ、買ってきた花を手向け、まちなかひろばへと戻った。

もちろんその夜は地元の人たちと飲み、ホテルに戻ったのは朝の3時になった。地震や津波だけでなく、原発事故の三重苦を背負いながらも、この街を何とかしようとする彼等のパワーは凄い。自分のことを振り返ってみれば、数年に一度引越しをする子供時代を送ってきたので、一つの土地に対する激烈な愛情は持っていないから、どこかうらやましくも思う。地元の人が、酔った勢いで、「なんでこっちで仕事するんだ。自分の街でやれよ。俺たちは自分でやるから」と言われ、僕も酔っ払っていたのでちゃんと反論できなかった。翌日、仙台まで車を運転しながらその言葉がぐるぐると頭の中を回っていたけれど、なぜかと問われれば、そこで出会う人たちが好きだからだろうなあと考えていた。震災から2年目の被災地の現状。まだまだ酷い現実は山ほどあるけれど、人がそこにいる限り何かが生まれていて、おそらく僕は、そんな素敵な人たちと出会うために旅をしているようだった。