オアハカ、その1。頭痛はいつも安酒のせいで。

深夜バスに乗り込んでオアハカに向かった。メキシコ・シティの巨大なバスターミナルは大混雑。旅行者が多いという訳ではなく、メキシコ人のクリスマス休暇による帰省ラッシュといった雰囲気である。人波をかき分けてオアハカ行きのバスを見つける。座席が狭く快適であるとは言い難い1等(その上のクラスのデラックスバスが満席だったこともあり、出費の抑制という意味もあり。)で、浅い眠りと覚醒とを繰り返していると、朝5時ちょうどにオアハカに着いた。外はまだ暗く、空気は極度に冷たい。バスターミナルでタクシーを拾って安宿を探す。暗いうちから宿の扉をがんがんとノックして当直を起こすも満室を理由に断られ続け、5軒目でようやく部屋を見つけた。4人用のドミトリーには僕の他には誰もおらず、非常に不人気の宿である模様。湿っぽいベッドの上には黴臭い毛布が1枚。毛布にくるまってガタガタと震えながら、日が昇るのを待った。

どうせ寒くて眠れないので、日の出と同時に街へ歩き出る。吸い込まれるような青空、古い石畳、カラフルで背の低いコロニアル風の建物、走り回るクラシックカーと、巻立つ土煙。遠い異国の我々の頭の中にあるステレオタイプなメキシコの街といった感じだろうか。超大都会のメキシコ・シティと比べて空気が格段に澄んでいるので、日の光が眩しくて、なんともこそばゆい。

この日は素晴らしい快晴。街をふらついたり、宿の中庭でビールを飲みながら読書をしたり、気がつけば暖かな日差しの下で眠りに落ちていたり、そんな過ごし方をしていると、あっと言う間に日が傾き出す。夕日を眺めに散歩にでかけよう。見晴らしのよいポイントを求めて、宿の裏手の急な坂道をゆっくり登っていると、坂の途中の家から小太りの親父が出てきて僕を呼び止めた。彼の家の軒先に座って、休憩がてら世間話をする。世間話といっても、相手はスペイン語しかわからないので、スペイン語の会話帳を介してのまどろっこしいものだ。「メスカルは飲んだことがあるか?」と親父が聞いてきた。メスカル。オアハカ名産の、竜舌蘭から作る蒸留酒である。もちろん飲んでみたいと答えると、「ちょっと待っとれ」と言い残して親父は家の中に消える。しばらくして、使い古されたコカコーラのペットボトルと小さなグラスを携えて戻ってきた。ペットボトルは透明な液体で満たされている。その透明な液体をグラスに少し注ぎ、僕に突き出した。勢いよく飲む。強烈なアルコールの味。原料に使われている竜舌蘭の風味は皆無で、むしろ工業用のエタノールに近い。アルコール度数は50度以上はあるだろう。「旨いか?」と聞かれたので、あまり語彙力のない僕は、知っているスペイン語を駆使して、「サブロッソ(めっちゃ旨い)」と答えた。

夕日を見たいことを告げると、メスカル入りペットボトルを片手に親父が案内してくれた。家の前の坂道をさらに駆け上がると、視界が一気に開ける。オアハカ出身、メキシコ史上初の先住民族から選ばれた大統領であるベニート・フアレスの像が指差す先で、親父と僕は二人並んで腰掛け、さらにメスカルをちびちびちと飲み倒した。慣れてくると、次第に旨味を感じてくるような気がするもので、ついつい進んでしまう。饒舌になったところで、職業や家族構成から、政治や宗教まで、ちゃんと伝わったか伝わらないかは永遠に謎のまま会話は転がる。気がつけば日は沈み、闇が訪れた。コカコーラのペットボトルの中身も無くなったので(!)、そろそろ立ち去ることにする。足元がおぼつかない。えらく眩しい星空だなと思ったら、それはオアハカの街の夜景だった。

「メスカルはバーで飲むと高い」と親父が言っていたことを思い出す。おそらく相当な安物か、自家製造かどちらかだろう。一人で宿に戻る途中で、屋台のタコスで腹を満たし、さてもう1軒飲みにでも行こうかと考えていると、突如強烈な頭痛が襲って来た。酒の安さは頭痛になって現れるものだが、それにしても頭痛への還元スピードが速すぎる。なんとか宿に戻り、そのまま湿っぽいベッドに倒れ込み、黴臭い毛布を頭から被った。頭痛はまずます酷くなる。部屋の外から漏れ聞こえてくる酔っ払いの楽しそうな笑い声とは対照的に、僕はそのまま気を失い、結果的には久しぶりの深い眠りに落ちた。

メキシコ・シティ。暦は終わるが、旅は始まり、人は踊る。

2012年の年末、マヤ暦の終わりだ!世界の終わりだ!との空騒ぎを尻目に、「終末思想くそ食らえ」と呟きながら飛行機に乗り込んだ。馬鹿な終末思想には全くもって興味がなかったので、出発の直前まで知らなかったのだが、マヤ暦のカウントダウンイベントなぞがあるらしく、メキシコやグアテマラに旅行者が大挙して押し寄せることが予想されているらしい。なにより人混みが大嫌いだし、わざわざ旅先でそんなものに鉢合わせしたくなかったのだけれど、興味がないが故に、気にもとめず旅の予定を組んでしまった自分が悪い。

そんな事情もあって、自分の中で珍しくネガティブな始まりとなったこの旅。関空から飛行機を乗り継ぐこと3本、待ち時間を合わせて24時間弱の苦行の末、メキシコ・シティにたどり着いた。ここからグアテマラを目指して東へと向かう。ただし、マヤブームの人混みを避けるために、このルートの見所の一つであろう遺跡関係には一切立ち寄らないことにした。まあ、もともと遺跡にはたいして惹かれないし、街や村を回って、ラテンアメリカの空気をじっくり味わえれば自分は満足なのである。そのため、ここから始まる旅行記には、チチェン・イッツァの話も、パレンケの話も、もちろんティカルの話もない。

メキシコ・シティ。その都市圏人口は1,000万人を越え、ラテンアメリカで最も発展した都市の一つだ。その昔は、アステカ文明の中心で、湖に浮かぶ幻想的な土地だったそうだが、この地を侵略したスペイン人により全てを破壊された。湖は完全に埋め立てられており、メキシコ・シティの中心部にアステカ時代の面影を見ることはほとんどない。今では、ソカロと呼ばれる広場を中心として、綺麗に整理された区画に、古いコロニアルな建物と、近代的な高層ビルとが混在し、巨大な街を作り出している。

メキシコ・シティを主な舞台にしたこの国の波乱の歴史は、国立宮殿のディエゴ・リベラの壁画に見ることができる。アステカの繁栄、スペインの侵略から革命までを一気に描いた密度の濃く且つ巨大な作品で、その迫力はとても写真に収まりきらない。リベラの「メキシコの歴史」に代表されるこれらの壁画は、革命直後の低い識字率のなかで、その革命の意味を必死に伝えようとした活動のなかで生み出されている。この街にも多くの作品が残されていて、民衆へと訴えることが目的であるために、美術館に高い入場料を払う必要もなく、極一部の金持ちどもに専有されることもない。そのほとんどが公共の建物や、屋外に置かれていて、街に彩りを加える。

壁画で有名なのは、シティの中心部からメトロバスに乗り、30分ほど揺られて南へ行ったところにあるメキシコ自治大学である。大学の建物自体がキャンパスとなって、シケイロスやオゴルマン等の壮大な作品を見せてくれる。ちょうどこの日は穏やかな日曜日、学生の姿をほとんど見かけることはなく、犬の散歩をする人や、ボールを蹴る子供が数名いただけ。それはそれはのどかな「芸術的空間」であった。

中心部からみて、メキシコ自治大学とは逆方向、メトロバスで北へ向かうとグアダルーペ寺院がある。もともとはアステカの聖地であったこの場所に、スペインから持ち込まれたキリスト教が混ざり合い、褐色のマリアという新たな信仰対象を生み出した。植民地の、ただ宗主国の文化に侵略された訳ではなく、宗主国の文化を取り込みながら新しい価値を生み出すというたくましさを垣間見る。日曜日は、参拝客でごった返していた。みなスマホやカメラで写真を撮りまくっているし、厳かな信仰の場というよりは、楽しい観光地といった雰囲気。

治安が悪いと聞いてはいたものの、普通に街を歩いたり、メトロに乗ったりするには何の問題もない。この日、旧市街はクリスマスムード一色で、昼夜問わず繁華街には人が溢れていた。夕闇が迫ると、旧市街に点在する公園では、スピーカーの許容を超えた音量でサルサが流れ、ひどく音が割れたビートに合わせて男女が、手を取り、抱き合いながら、くるくると踊っていた。そこでは、マヤ暦の終わりの悲哀などは皆無で、人々はあっけらかんとクリスマスを楽しんでいる。世界は、糞のような終末思想論者の期待通りに、そんな簡単に終わるものじゃない。時差でボケボケの頭の中で爆音のサルサが強烈に響く。

まあ、正確に言うならば、メキシコ・シティの起源はアステカであって、そもそもマヤではないとか、まあ、そんなことを云々。

インドネシア、ジャカルタ

インドネシアの首都・ジャカルタでは、ジャラン・ジャクサという街に滞在した。ちょうどこの日はイスラム教の祝日である犠牲祭の前日にぶち当たり、通常であれば車で30分の道のりだったのだが、4時間以上かけても未だ目的地につかないという壮絶な大渋滞に巻き込まれた。道路一面を埋め尽くしピタリと動かない車の列からは、焦りや怒りは既に通り越し、諦めに似た感情が渦巻いている。せかせかと生きていては、この国ではやっていけない。のんびり行くのだ、のんびりと。30 kmを4時間かけて。

ジャラン・ジャクサは、その昔は安宿が多く、貧乏バックパッカーの溜まり場として栄えたようだが、今ではすっかり寂れていて、営業しているのかどうか怪しいホテルやレストランも多く見かけられる。外国人の姿もそう多くはない。バリのデンパサールも国際線が多く発着しているので、よっぽどの理由がなければ、巨大都市・ジャカルタよりも、穏やかなバリをゲートシティとして選ぶのだろう。急激に人とお金が入り込んできた現在のジャカルタは宿命的な過渡期にあり、矛盾がそのまま混沌という形でさらけ出されている段階のように思う。

それでも、ジャラン・ジャクサの大通りから一歩足を踏み入れると、一気に時間軸がずれる。人がすれ違うのがやっとの細い路地が碁盤の目のように張り巡らされていて、小さなモスクがあちらこちらに点在している。巨大な張りぼてのコンクリートばかり見上げていたので、生活感溢れるこんな路地を歩くだけでホッと一息ついた。犠牲祭は、イスラムの大切な祝祭だ。家々の軒先では、犠牲祭の食事のために、男たちが忙しく山羊や牛を捌きたおしている。捌かれた肉は、貧しい人々に与えられる。捌かれた山羊や牛から流れた血の鮮やかな赤い色が細い路地を染めるなか、子供たちは外で走り回り、ネコは日影であくびをする。急激な変化が著しい今のジャカルタで、僕が唯一落ち着くことができるのは、昔から変わらないであろうこんな風景を眺めているときだった。

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