インドネシア、クパン

とにかく広いインドネシアの東に位置するティモール島。ここの島からさらに東に行けばパプアで、南に行けばオーストラリアのダーウィンである。だから、ティモールは、アジアの文化圏の最果ての地と言ってもいいかもしれない。10月。滞在したのはティモール島の中心となる街クパン。小ぢんまりとした空港を出れば、ジャカルタやボゴールのあるジャワ島とは打って変わり、鮮やかに晴れた空と乾いた大地が広がっていた。こちらの雨季の始まりは、ジャワ島から1、2ヶ月遅れるうえに降水量も比較的少ない。海から吹く強い風がなかなかに心地よく感じる。

ティモール島の東半分は、10年ほど前にインドネシアから東ティモールとして独立した。現地の方から話を聞くと、島の西端に位置しているクパンは、東ティモールとは最も距離が離れているといえども、当時は暴動に巻き込まれたらしい。その原因は、独立運動からなぜか飛び火したイスラムとキリストの宗教的な対立だったという。そもそも、たった一つのティモール島を、東ティモールに属する東側と、インドネシアに属する西側とに分け隔てたものは、植民地時代の統治国がオランダだったかポルトガルだったかの違いに過ぎない。植民地返還が遅れた東側に対して、スハルト時代のインドネシアが軍事的に押さえつけたことから反発が生じ、さらに、カソリックとプロテスタントという統治国の宗派の違いが溝を深めた。勝手に島を分割することがなければ、そもそも植民地支配がなければ、こんな馬鹿げた対立は生じていなかった。支配が形式的に終わった後も、その爪痕は今でもくっきりと残っていて、死ななくていいところで人が死んでいる。この土地ではほんの10年前に、そして今も世界のいたるところで。

もちろん、現在の穏やかなクパンからは、そんな悲しい事実を想起させられることはない。狭く凹凸の激しい道路を埋め尽くす車やバイクに少し辟易しながら街を歩けば、ギラギラと照りつける太陽の下で人やネコはのんびりと暮らしている。海沿いの通りでは、夕方になると一面に屋台が立ち並ぶ。鮮度を若干心配しながら、無造作に並べられ魚の中から好きなものを指差すと、甘辛いタレをたっぷりつけて焼いてくれる。

魚をアテにビールを飲んでいると、10人くらいの若者の集団が通りかかった。一見したところ、年齢は10前後から10代後半で、全員が粗末な服に身を包み、足元はボロボロのサンダルか、もしくは裸足だが、年上の若者は鮮やかな色のモヒカンに古い鋲ジャン(インドネシアで!)という典型的なオールド・スクール・ハードコア・スタイルをしている。大事そうに抱えているのはウクレレサイズのボロボロのアコースティックギター、別の若者は手作りのパーカッションを携えている。彼らは、僕らの席から少し離れたところで立ち止まり、僕らと決して目を合わせることなく演奏を始めた。モヒカンが小さなアコギを弾きながら歌う詞は、「『セレブレティ』は『ファ○キン』で且つ『シ○ト』である」というフレーズを繰り返したもの。3コードの初期パンク風ロックが小さなアコギと軽い太鼓で奏でられるので、どこか間が抜けて陽気に響くが、その中身は直情的なレベル・ミュージックなのであった。隣に座っていたバカンス中の白人旅行者たちも含め、きっと僕らに向けられた歌なんだと思う。曲が終わると、その集団にいた最年少の子がお金を集めに来たので、少額の紙幣を渡す。モヒカンは、最後までこちらに視線を向けることなく、新しい演奏場所に向かって夜の街に消えていった。明るい日差しと美しい海に彩られたクパンとは真逆の、貧しさ、やり場のない怒り、そして、その全てをぶつけた音楽と。あのモヒカンの眼には、いったい何が映っていたのだろう。

インドネシア、ボゴール

インドネシア。混沌という言葉をそのまま体現したような巨大都市・ジャカルタから数十キロ内陸に入ったボゴールは、世界最大の植物公園が有名で、元大統領の別荘もあることからわかるように、ジャカルタより遙かに過ごしやすい郊外の街である。

ジャカルタの空港からボゴールまではジャカルタの中心部を貫いた高速道路で繋がっていて、スムーズに流れれば1時間で着くのだが、このルートは慢性的な混雑に見舞われている。場合によっては空港から5時間かかることもあるとのことだった。1時間に10kmという計算なら僕のジョギングの方がよっぽど速い。ジャカルタは今や、東京に続き、都市圏人口は世界2番目となっているのだが、増え続ける人口に対してインフラの整備が全く追いついていないから、ジョギングが車に勝つことになってしまう。空港で捕まえたタクシーの運転手には、最初3時間かかると脅されていたが、ちょうどこの日は世間的には休日だったこともあって、すんなり1時間でホテルに着いた。

とは言いつつもい、ボゴールも中心部は人や車で溢れ返っている。ナシゴレンやミーアヤムの屋台や、暇そうに客待ちをしているサイクルリクシャーや、安物のギターを片手に演奏してチップをねだる若者や、学校帰りで元気が有り余っている子供たちを掻き分けながら街を歩いた。空気は水分をたっぷりと含んで肌にべったりとまとわりつく。もうすぐ雨季がやってくる。

トルコ、イスタンブール、その3。旅の終わりに。

イスタンブールに戻ってきた。ネムルトダーゥの翌朝の早い時間にカッパドキアへと向かう二人と別れ、一人寂しくキャフタからシャンルウルファへとバスで戻り、さらにその翌日にシャンルウルファの空港からイスタンブールへと飛んだ。素朴な東トルコにすっかり慣れ切ってしまっていたので、イスタンブールの街のお洒落具合に少々緊張する。空港から地下鉄とトラムを乗り継ぎ、スルタンアフメット地区で安宿を確保し、さっそく散歩に出かけることにした。イスタンブールは、ボスフォラス海峡によってヨーロッパとアジアとに分け隔てられている。観光客の多いスルタンアフメット地区はヨーロッパにあって、そこから程近いエミノニュの埠頭からアジアに行く連絡船が頻発する。連絡船に乗れば、僅か10分の航海でヨーロッパとアジアを行き来することができるのだ。当然、僕の足は自然とアジア側へと向かうのであった。

アジア側にあるユスキュダルとカドゥキョイを散策する。アジア側といえども、もちろん、それだけで風景が劇的に変わることはないのだが、観光客の姿は比較的少なく、地元の人が集う下町といったところだ。カドゥキョイの少し北には、長距離の鉄道の終着点となるハイダルパシャ駅がある。アジアから鉄道で旅してきた旅人は、この駅に降り立ち、連絡船でヨーロッパ側に渡るのだろう。ボスフォラス海峡の対岸に霞むヨーロッパを眺めたときに、どんな感慨が沸くのだろうか。そういえば、10年前に初めてインドを一人で旅行したとき、知り合った旅人から聞いたシルクロードの旅の話がなぜだか今でも鮮明に記憶に残っている。中国、ウイグルからキルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタンからイラン、そしてトルコまで、乾いた大地でさんざん埃にまみれた後で、イスタンブールからボスフォラス海峡を目の前にしたときの感動。東トルコを駆け抜けてきた僕にも少しだけ共有できるかもしれないと思いながら、久しぶりのビールを思い切り流し込む。

トルコ最後も、サッカーな夜だった。ベシクタシュとフェネルバフチェとのイスタンブール・ダービー。イスタンブールに本拠地を構えるガラタサライ、ベシクタシュ、フェネルバフチェのうち、アジア側にあるのはフェネルバフチェのみだ。この日の試合がベシクタシュのホームだったこともあって、アジア側の中心地であるカドゥキョイの飲み屋街はどの店も試合の中継を流していて、道いっぱいに溢れたフェネルバフチェのユニフォームを来た人々は誰も彼も試合に集中している。僕も、寒くなってきたにも関わらず、ジャケットの前のジッパーを開け、フェネルバフチェのチームカラーの黄色のTシャツを見せびらかす。落ち着いて観戦できそうな店に入り、ビールを飲みながらテレビの中の戦況を見つめる。

試合の内容自体は、残念ながら、ディヤルバクルで見たトラブゾンスポル・ガラタサライほどのエキサイティングなものではなかった。フェネルバフチェが再三攻めこむものの、ベシクタシュの堅守を崩すことができない。前半終了間際にベシクタシュのカウンターが決まり、街を埋め尽くした黄色の集団は意気消沈。後半になってもベシクタシュの守りは固くなるばかりで、フェネルバフチェに決定的なチャンスはほとんど訪れず、皆、頭を抱えるばかり。後半も30分を回ると席を立つ客も増えてくる。僕も、宿を取ったスルタンアフメットまで戻らなければならないし、連絡船の時間も不安だったので、2杯目のビールを飲み終えたところで宿に帰ることにした。港に行くと、ちょうどヨーロッパ側に向かう連絡船が出航することころ。慌てて船に飛び乗った。連絡船の甲板から感じる夜の空気は5月といっても物凄く冷たい。

ヨーロッパ側に戻り、スルタンアフメット方面へ行くトラムに乗り込むと、そのトラムは白と黒のユニフォームを来たベシクタシュサポでいっぱいだった。慌ててジャケットの前のジッパーを閉めて黄色いTシャツを隠す。満員のトラムの中で、陽気にベシクタシュのチャントを歌い出す彼らの様子を見ただけで今日の試合の結果は予想がつく。まあ、こんな日もあるさ。

翌日。いよいよ帰国の日。フライトまでの時間は、再びアジア側のカドゥキョイを歩いて過ごすことにした。たまたまふらふらと歩いて見つけた雑居ビルの中に本屋街があった。ふと思い立ってクルド語の会話帳がないかどうか聞いてみる。何軒か回って、最後にクルド語―トルコ語の会話帳を見つけることができた。もちろんトルコ語もたいして理解していないので、日本語―トルコ語の会話帳と合わせて購入した。日本ではクルド語の本なんて全くもって見たことがないから、これはきっと貴重なものだ。とにかく、クルドの人々と話していて抱いた、それぞれの思いが伝わらないもどかしさも、これでほんの少しは解消できるかもしれない。またあの地を訪れる機会に巡り会えるなら。

連絡船で深い霧に包まれたヨーロッパ側へと戻り、最後の食事となったサバサンドを思いっ切り頬張った。帰国のフライトの時間まであと少し。旅の魔法が間もなく切れる。さて、次は、どこで、どんな出会いをするのだろう。

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