2011年→2012年、インド、マハーバリプラム

今回の旅のシンガポール航空をチェンナイin / コチoutにしておけばよかったのだが、旅程をあまり考慮に入れておらず、なんとなくチェンナイin / outで購入してしまった。仕方なく朝のフォート・コチを出て、チェンナイまでJet Airwaysで飛ぶことに。その結果、最後の1泊はチェンナイ近郊で過ごすことになったので、最後の最後のお楽しみとして残しておいたのがマハーバリプラム(ママラプラム)という街である。チェンナイのバスターミナルから満員のローカルバスに揺られ約2時間。日が傾きつつある頃、ようやくマハーバリプラムに着いた。

チェンナイは普通の大都会で、あまり興味は持てなかった。それは自分だけではないようで、旅行者のほとんどはマハーバリプラムに向かう。ここは、世界遺産の寺院と、ちょっとしたビーチのある小さな街で、バックパッカー向けの安宿や店が充実している。世界遺産である海岸寺院は実際たいしたことはなさそうだった(だから、遠くから眺めただけだった。)が、街の居心地が素晴らしくよい。この居心地のよさを無理矢理例えるなら、カトマンズを相当小ぢんまりさせたような感じか。日が沈んだ後、恒例となっているらしいダンスフェスティバルを適当に眺めたりしながら、ふらふらと街を歩き、カフェで冷えたフルーツジュースを飲みながら、深夜まで小説を読み耽った。

翌日は、いちおう遺跡でも回ってみる。落ちそうで落ちない巨大な岩「バターボール」が有名。まあ、通過儀礼的なそんなものよりも、ここは街歩きが楽しい。バックパッカー向けの店が並ぶOthavadai Streetからひとつ裏路地に入ってみれば、穏やかな住宅街になる。南国らしいカラフルな彩りの家が並び、抜けるような青空にその壁の色がよく映える。

結局、夕方までフラフラと街を歩き、タクシーで空港に向かった。南インドをぐるりと回ったこの旅。派手な土地ではないので、帰国してから友人に感想を求められても、「ああ、のんびりしてたよ」としか答えられないのだけれど、本当にいい旅って、そういうものだとしみじみ思う。それは、カメラの中に蓄積された笑顔の数が断トツで多いことでもわかる。

2012年、トルコ、前書き。

旅好きな人間が、ある地域に心を奪われ、何度も足を運んでしまうことを「(地域に)呼ばれる」と表現する。私の場合、それは中東だった。2007年にモロッコ(正確に言うと中東とは少し違うが)を旅してイスラム文化に触れて以降、定期的に呼び出しがかかり、シリアを旅したのが2008年、イランを旅したのが2010年。そろそろ次の呼び出しがかかる時期だ。そういえば、去年のキューバの旅は、最初イエメンに行くつもりだったのを、治安がとんでもなく悪くなったので、直前に変更したんだった。

そこで、このゴールデンウィークに少し長めに休みをとってトルコに行ってきた訳だ。しかし、正直言うと、トルコはメジャーな観光地としてのイメージが強くて避けていたところがある。31歳のおっさん一人でカッパドキアやエフェスに行っても虚しさが募るだけだ。ふと、トルコの地図を広げてみた。トルコの国土は東西に長く、有名な観光地は西側に集中している。じゃあ、東は?「ドゥバヤジット」「ディヤルバクル」「シャンルウルファ」「ガジアンテップ」・・・。聞き馴染みのない街の名前がたくさん出てくる。それらの街の写真をパソコンの前で眺めていると、それはそれは猛烈な勢いでお呼びがかかり、私の心は踊り狂った。

トルコの東側は、トルコ人ではなくクルド人が多く住む地域だ。彼らは「独自の国を持たない世界最大の民族」として知られ、テロ組織とされているクルド労働者党(PKK)とトルコ政府との紛争や、国は違うがイラクのフセイン大統領による毒ガスでの大量虐殺、そして、2011年10月に起こった大地震。日本での数少ない情報源から得られるイメージは、明らかに悪い。しかし、本当のところは、美しい土地に素晴らしい人々が住んでいるのだ。そして私は、アナトリアの果てしない大地をひた走りながら、そのギャップを肌で感じつつ、この地域の抱える矛盾について、ずっと考えさせられていた。

トルコの東側は観光地化されていないことがひとつの魅力だが、同時に公共交通機関がプアだったり、いい安宿が少なかったりと、旅をやりづらい土地でもある。そのため、いつも以上に多くの人に世話になった。イスタンブールのドミトリーで派手なガッツポーズで迎えてくれたインドネシア人のAtmojo、前半の旅程が偶然にも重なり、ツインルームをシェアしたワンの宿が共同シャワーすらなく、共に打ち震えたアメリカ人のNico、めったにバスが通らないアクダマル島への桟橋から近くの村まで車で送ってくれたドイツ人のご夫妻、シャンルウルファの宿で山と積まれたビールを前に夜遅くまで語り合ったHelgaとKenneth、その語り合いの中からネムルート・ダーまでの車をシェアしてくれることとなり、道中のキレキレの掛け合い漫才に大爆笑させていただいたEmmaとHelmut、そして、この小汚い東アジア人に、チャイを奢り、ビールを奢り、ヒッチハイクに気軽に応じてくれ、片言のクルド語とトルコ語を駆使して語り合った現地の人々。この旅で出会った全ての人に感謝。今回の旅は、本気で書きたいことが山ほどあって困る。

おっと。その前にまだ南インドの旅が完結していないので、まずはそちらから。

2011年→2012年、インド、フォート・コチ、その2。

その翌日。朝、連続的な物音で目が覚める。窓の外に目を向けると、まだ薄暗かった。しかし枕元の時計は8時を指している。この物音は何か、なぜ薄暗いのか。雨だ。しかも、大雨だ。ケーララの12月は年間降水量が最も少ない月であって、一般的には乾季と呼ばれる時期にあたる。やれやれ。雨男の本領発揮である。いや、むしろ乾季の南インドに雨を降らせたとなれば、ただの「男」というより、むしろ「神」の領域に近づいてきているのかもしれない。雨神様の誕生である。

大好きな街歩きもできないので、部屋でゴロゴロしながら小説の頁をめくった。雨が降っても、当然の如くお腹は空く。昼過ぎに意を決し、大雨のなか近所のお菓子屋でドーナツとチャイを立ち食いして、また宿に戻ってゴロゴロしながら小説の頁をめくる。結局、雨に止んでいただけたのは、昼の3時を回った頃だった。

雨上がりのフォート・コチを散歩する。ひんやりとした空気が心地よい。昨日歩いて楽しかった下町の方へと足を向けてみる。雨が降り止むのを待ち侘びていたのは人だけじゃなかったようで、遊び相手を求めていたのかネコが2匹こちらに向かってやってきた。人恋しい者同士、1人と2匹でじゃれ合う。

住宅の集まる細い路地を歩いていると、親父ばかりが数人集まっている小屋を見つけた。気になってその前をうろうろしていると、中から手招きされるので思い切って中へ足を踏み入れる。そこにあったものは、なんと、カロムだ。

知る人ぞ知る幻のゲーム、「カロム」。ただし、幼少時代を滋賀県彦根市で過ごしたものなら誰でも知っている、「カロム」。木製のコマを指で弾いて別のコマに当て、それを四角のポケットに落とす、要はビリヤードの原型である。なぜか日本では彦根市でしか残っておらず、その特異性は多くのマスコミ等にも多く取り上げられている。私は小学校時代を彦根で過ごしたので、もちろんルールも完璧にわかっているし、全国大会(彦根市限定)への出場経験もある(すぐに負けたが)。インド人の親父にこれを何と呼ぶのかを聞くと、はっきりと「キャロム」と答えた。ああ、まさか20年ぶりにこんなところで出会うことになるとは。

ということで、早速プレイ。日本(彦根)のカロムと違って四角のポケットが小さく、それはコマの直径を一回り大きくした程度だ。これは相当正確なショットが要求されるため難易度が高い。ダブルスでプレイしたのだが、一緒に組んだおじいちゃんの大活躍により驚くべきことに勝利を収め、負けたチームの親父に隣の店でチャイを奢ってもらった。次回は、ぜひ日本チャンピオンとケーララチャンピオンとで対戦していただきたいものだ。

日が暮れるまで下町をふらふらと散歩する。このあたりはモスクが多く、一斉に鳴り響くアザーンが耳に心地よい。そして、昨日よりも街を歩く人が多いような気がする。はしゃぐ子供たちも雨で溜まったフラストレーションを一気に吐き出しているようだ。そういえば、この日は大晦日だった。

晩飯を食べようと思い、トルコ風のケバブを売る軽食屋の前で並んでいると、偶然、大人数のパレードに遭遇した。白装束を来た男が先導し、巨大な十字架がつき、その後ろに一般の人達が永遠と列をなしている。Santa Cruz Basilicaと書かれた垂れ幕が掲げられていたので、昨日行った美しい教会を中心とする人々であることはすぐにわかった。総勢500名はいるだろうか。慌ててケバブを受け取って、手に持ったままパレードを追いかけた。

パレードの前半は厳かに歩いているだけだが、後方には上半身裸で太鼓を叩きながら踊る一団があり、なんと最後尾にはマリア像のようなご神体を乗せて音楽を流すサウンドカーまで擁している。キリスト教がインドに渡って現地の色に染められて信仰が守られるのは理解できるのだが、サウンドカーの流す音楽は、きっと、それは賛美歌なのだろうけど、実際にはヒンドゥー歌謡にしか聞こえない。まあ、それでもいいじゃないか。

最後尾からケバブを頬張りながら追いかける。道の両側の家々から、ニューイヤーを祝う花火が一斉に焚かれた。カラフルな火花と立ち上る煙の中、太鼓は打ち鳴らされ続け、踊りは激しさを増していく。フォート・コチの街をぐるりと回って、Santa Cruz Basilicaに戻って一行は教会の奥へと消えていった。宿に戻る途中にも、ごく普通の民家からダンスミュージックが大音量で流れている。もうすぐ日付が変わり、新しい年を迎える。この日この時間のフォート・コチに、眠りの気配は全く感じられなかった。

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