2011年、キューバ、ハバナ、その2。

 ハバナ旧市街は、植民地時代にアメリカの国会議事堂を模して建てられたCapitolioが中心となる。これは街の目印として非常にわかりやすい。迷子になっても、タクシー乗っても、スペイン語が多少不自由でも、「きゃぴとりお!」と叫べば、まあ何とかなる。

 宿は、Casa Particular(キューバ版民宿、というよりは、むしろホームステイに近い安宿)が旧市街にいくらでも転がっているので、2~3軒回って好きなところに落ち着けばいい。一応、Lonely Planetで目星をつけていったが、それは全く不要であった。ガイドブックには出てこない素晴らしいCasaがいくらでもあるのだ。空港からのタクシーをキャピトリオ前で降りて、たまたま捕まった客引きは、全身白の服にサングラスという胡散臭いダンスホールレゲエシンガーといった様子だったが、陽気な彼に連れられていったCasaは、Capitolioから歩いて3分位の旧市街のど真ん中。親切なお母さんと、朴訥としたお父さんと、セクシーなお姉さんと、その息子の糞ガキの住む素敵なお家であった。テレビやパソコン等の電化製品も充実していて(iPodまであって!)意外と裕福そうだ。そもそも、Casa Particluarは政府によって厳格に管理されていて、ある程度は裕福な家じゃないとライセンスが与えられないらしい。観光産業を重視する方向に舵を切ったキューバにとって、外貨は非常に貴重であり、「持つ者」がより「持つ」ようになる。社会主義国であるキューバを取り巻くその矛盾には、この旅で何度も出会うことになった。

 さて、旧市街を歩いてみる。数百年前のコロニアル時代からほとんど変わらないだろう建物がひしめき合い、その間をアメリカン・グラフィティなクラシックカーが走りまわる独特の風景。キャピトリオからカテドラルに通ずるオビスポ通りは観光客でごった返している。観光客嫌い(自分も観光客のくせに)の私ではあるが、なぜだかこの街では嫌な感じを受けない。旧市街にはオープンなカフェやバーが点在している。カテドラルの近くのカフェでモヒートを飲んでいると、流しのミュージシャンがやってきて、ギターとマラカスとボーカルで1曲演奏してくれる。当然、素晴らしい演奏に対してチップを払う。

 チップについて。キューバは二重通貨を採用し、外国人向けの通貨(CUC)と現地用の通貨(CUP)が分かれていることは有名な話だ。1USD=1CUC=24CUPで(ちなみに米ドルを両替しようとすると追加手数料がかかるので、カナダドルかユーロの方がいい。とにかくいろいろややこしい)、タクシー、レストランや缶ビール、モヒート等は全てCUC払いとなる。CUPは、現地用の安食堂や屋台等で使える。キューバ人がCUPだけで生活を送ることができればなんら問題はないのだろうが、例えば、缶ビールはキューバ国内で作られているにも関わらずCUCでないと買えない(ただし、CUP用の生ビール屋はあった!)。CUCとCUPとの間の格差がどんどん広がり、そしてCUCの力が強くなり過ぎている。Casa Particularもそうだが、現在のキューバで裕福になるためには、CUCをいかに獲得するかによる。理系の大学を出るような優秀な人材がわざわざタクシーの運転手になるという話を聞いた。給料に格差がないキューバでは、エンジニアよりも、観光客からチップを貰える仕事の方がもうかるらしい。キューバの社会には、一刻も早く解決しなければならない問題が非常に多く、且つ根深い。

 だから、彼らは外国人を見かけたら、缶ビール奢ってくれよ、と言う。そして、僕は親切にされたり仲良くなったりしたら、彼らにビールを奢って一緒に飲む。どこの国の、どんな人でも、ビールぐらい腹いっぱい飲む権利くらいあっていい。少し濃いめのBucaneroは、カラッとしたキューバの気候にも、カラッとしたキューバ人の性格にも、非常によく合っていた。

2011年、キューバ、ハバナ、その1。

 さて、これは2011年のゴールデンウィークに無理矢理に仕事の休みを取って出かけたキューバ旅行の話だ。昔からキューバに対しては漠然とした憧れをいだいていたが、遠くて時間がかかるのと(日本からだと、どのルートでも途中で1泊以上奪われる。何が悪いって、アメリカ経由便がないのが悪い。)、2重通貨制度により外国人にとってはやたら高額な旅になってしまうという噂により、旅行先としては無意識的に敬遠していたところもある。しかし、まあ、なんとなく航空券を調べてみれば、トロント経由のAir Canadaの便が意外と安かったので、衝動的に「購入ボタン」をポチっと押してしまった次第。往路復路の計2泊の無駄を合わせた14日間という、久しぶりに思い切りのいい旅行になった。普段は馬車馬のように働いているんやから、ちょっとくらいええやんかという言い訳。ヨーロッパ人のバカンスに比べれば極々短期間でしかないが、そこでビビってしまうのが島国根性、というより個人的な問題。
 4月下旬、無理矢理に仕事を片付けたつもりで、伊丹空港から成田空港、そしてトロントからハバナへ。トロントの滞在時間も合わせれば、30時間以上の長旅である。

 トロントは、厚い雲に覆われていて暗く、真冬かと思うほど寒く、着いてしばらくすると大粒の雨が降りだした。春のポカポカとした日本から、常夏のキューバに行くのに厚着など持ってきているはずはない。念の為にとバックパックの奥底に入れた毛布を取り出して体にぐるぐる巻いて移動する。空港周りは超高級ホテルしかなく、安いB&Bは、バスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンまで出なければ、無い。ダウンタウンまで空港からは1時間半程かかる。バスと地下鉄は共通で$3乗り放題と糞安いのが唯一の救いであった。

 トロントのダウンタウンは、私の大好きなゴチャゴチャした猥雑な空気を微塵も感じさせない、北米らしい、いかにも計画的な街並み。写真のチャイナタウンも整然としていて大人しい。日本から予約をしていたB&Bは、このチャイナタウンから歩いて10分程のところにあって、セントラルヒーティングで暖かく非常に居心地がよかった。ただ、外に出ると無茶苦茶寒い。そして雨。キューバの経済事情を考えて、日用品を少し買い、レバノン系の軽食屋でバターライスという名の油ギトギトのおぞましい物体を食し、長旅の疲れで倒れるように眠る。
 翌日は、外もまだ暗い朝の6時に起きだして、昨日来たルートをいそいそと1時間半かけて空港へと戻る。トロントからハバナまでは意外と近くて3時間程。ちょうど東京から沖縄まで飛ぶような感覚に近いだろうか。一刻も早くハバナに行きたい、そんな熱い思いを掻き立ててくれたので、4月のトロントには少しだけ感謝しておこうか。
 機内でLonely Planetをわくわくしながら読んでいると、キャビンアテンダントのおっさんに、「キューバ最高だよね!俺も大好き!」と声をかけられる。そうだよな。間違いない。嗚呼、なんて素敵な響きだろう、「ハバナ」。そして、空港に降り立つ。その瞬間に襲ってくる熱気。キューバに降り立ったことを実感したここから、最高に熱い旅が始まった。

2010年→2011年、ビルマ、ヤンゴン、いや、ラングーン。

 ガバリからヤンゴンへ飛び、1泊して翌日の夜の便で日本に帰る。ここは旅で一番精神的に堪えるときだ。小さくて個性的な街で好きなだけゆっくりした後、帰国のために強制的に立ち寄らされる、その国一番の大都会。ところでビルマ一の大都会「ヤンゴン」は、軍事政権が国名を「ミャンマー」としたときに一緒に変更された新しい名前である。昔の現地の発音に合わせたようだが、「ラングーン」の方が響きがいいと思う。意味は、「戦いの終り/ラングーン」。美しい言葉だねえ。やっぱり「ラングーン」にしようか。道中出会った白人は、みんな「ラングーン」と呼んでいたし。物の本によれば、「ミャンマー」の国名変更にあっさりと従ったのは日本だけという話もあった。

 空港から降り立つとすぐに感じる熱気と排気ガスと騒々しさ。空港でタクシーを捕まえて、下町の安宿を確保したときには日が暮れていた。タクシーを待たせたまま安宿に慌ててチェックインし、急いでシュエダゴン・パゴダに向かう。







 ここはビルマ仏教最大の聖地で、世界一美しいと言われる金色の仏塔が聳える。ラングーンの下町からタクシーで10分程走ったところ、山一個がまるまる寺院だ。山の頂上には、ライトアップされ光り輝く巨大な仏塔と、その周りで跪いて熱心に祈る人々、さらにそれを取り巻く無数の小さな仏塔、所狭と無理矢理に配置された仏像、ケバケバしい電飾。神聖でもあり、一方で猥雑でもあり。仏塔は本物の金で、宝石が埋め込まれているとの情報もあり、決してこの国は貧しくはない。方法が、方法だけが問題なのだ。でも、そんな方法は近い将来、確実に変えることができると信じている。





 パゴダをじっくりと味わった後、チャイナタウンへと向かう。目的はもちろん屋台。そうだ、このために東南アジアを旅しているようなものだ。細い路地を占領するように店が立ち並び、どこも生ビールを飲む若者で埋まっている。地元の人を見習って生ビールと串焼きと麺をいただく。ここも貧困国のイメージからはほど遠くて、意外と物が溢れているし、夜遅くまで賑やかだ。奴等のパワーは凄まじい。





 ビルマの最終日。ラングーン市内をぷらぷらと歩く。コロニアル様式の建物が残る街並みは東南アジアでは珍しい。カラフルな建物がビルマの強い日の光に照らされて、いっそう鮮やかに映る。世界の潮流から取り残された多文化都市の魅力。パゴダが聳える通り沿いにある、イスラムモスク、ヒンドゥー寺院、中国系仏教寺院。数ブロック歩けば一気に変貌する街の空気、でも建物は全てコロニアル。バンコクとかクアラルンプールとか、急激に成長した他の東南アジアの都市では失われたであろう、むせ返るような強烈な個性がある。






 本音を言えばもう少しだけゆっくりしたかったが、この日の夜の便でバンコクへ飛び、数時間のトランジットの末、翌朝には何事もなく無事に日本に戻ってきた。

最後に少しだけ旅の総括を。

 その1。ラングーン・バガン・インレー湖、これにマンダレーを加えた旅程がポピュラーだが、それぞれの街が悪い感じに離れていて、陸路だと20時間は覚悟のため、日程に余裕がないと辛い。飛行機を選択したが、味気なかったのが正直なところ。
 その2。驚きの白人天国。さすがクリスマスシーズン。宿は意外と高く、飛行機は常時満席。当然、観光は主要産業となっているので、いたるところでお金を回収されるのが腹立つ。入域料はほんと勘弁していただきたい。
 その3。正規の為替レートが使えないので、旅行者は闇両替を利用することになるが、これが著しく不安定。旅行中にドルが急激に安くなって、入国時には1$=900kyat~1000kyatだったものが、帰国時には1$=700kyatまで下がった。何軒か回っても同じだったし、理由が「Independence Dayだから」って意味わからん。というかレートがどうやって決まっているのかわけわからん。
 その4。バガン・インレー湖は有名な観光地で、観光地然とした土地であり、ガバリはリゾートで、リゾート然とした土地であった。そのため、全体的になんとなく不完全燃焼。ビルマの生活の中に入っていくような経験はできなかった要は10日程度では辛い。これはいつも思うことだが、それをより一層強く感じた国であった。
 その5。日本では国名は「ミャンマー」とされている。ただ、この国で古くから根付いた文化や、そこに住む人々を呼称する際は「ビルマ」が使われる。現地でも、自分の国を「ミャンマー」と呼んでも、自分のことは「ビルマ人」と呼ぶ人に多く出会った。自分が旅をする対象は、昔から「国」ではなく「文化」だ。だからこそ、ここでは何の躊躇もなく「ビルマ」という呼称を使った次第。

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