2011年→2012年、インド、マドゥライ

 マドゥライと言えば、なにを差し置いても、まずはミーナクシー寺院である。深夜バスで到着してすぐ。事前にLonely Planetで調べておいた中では寺院に最も近い安宿へと向かい、シングルルームを確保した。荷物を置いて、最上階へと階段を昇る。朝6時過ぎ、宿の屋上からみた徐々に明けゆく空と、その空に突き刺さるミーナクシー寺院の塔門(ゴープラム)。撮りたかった写真が撮れた。

 眠気はすっかり醒めた。早速、朝の寺院へ向かう。ミーナクシー寺院は、東西南北それぞれに聳え立つ、50mを超す巨大なゴープラムが特徴的だ。ヒンドゥーの神々の細かくてカラフルな彫刻が高い塔全体を覆っていて、それが全体的に緩やかな曲線を構成する。その存在感は圧倒的だ。昇りゆく日の光を受けて徐々に色を変えていくヒンドゥー版八百万の神々。バカみたいに写真を撮り続けたので、カメラを持つ手が痛くなってくる。

 厳重なセキュリティチェックを潜りぬけ(「だから、それは替えの単焦点レンズだって言っとるやないか!」)、寺院の中に入る。朝もまだ早かったが、既に参拝者でごった返していた。寺院内部の回廊の天井にはサイケデリックな模様が施され、奥へと続いている。模様に誘われるまま奥へと進めば、ヒンドゥー教徒以外の立ち入りが禁止された区域があり、中に入ろうとする巡礼者が大行列をなしている。外から様子を窺い知ることはできないが、特別な祈りの場所があるのだろう。うろうろしていると、巡礼者の団体に声をかけられた。ハイダラバードから来た彼らは、カーニャクマリやラーメシュワラム等の南インドの聖地を回り、今朝マドゥライに辿り着いたらしい。

 この旅で気付いたもう一つのことは、行く先々でインド人の国内旅行者の姿ばかりが目立ったことだ。南インドは、北インドに比べれば目立った観光地が少なく、外国人は少ないとはいえ、しかし、多くのインド人が国内を自由に旅行できるくらいの経済力を持つようになったということだろう。ハイダラバードからの巡礼者から、朝御飯代わりに、ビスケットの残り少ない水分を飛ばしきったような謎の物体をいただいて、モグモグしながら握手して別れた。

 寺院の中をひと通り散策した後で外に出た。ミーナクシー寺院の周囲は門前町として栄えている。礼拝用の雑貨、貴金属、衣服から、目覚まし時計に至るまで、さまざまなお店が軒を連ねている。大好きな細い路地に入れば、子供に取り囲まれて写真撮影大会が始まった。日本に帰って現像した写真を送るつもりが、住所がどれがどれだかわからんようになったのだが。うーん。子供に案内されるまま奥へとついていくと、ちょっとした空き地があって、一緒にクリケットをやってみる。クリケットのルールは未だにわかっていないが、板でボールを打ち返していれば、まあ、なんとかなるものだ。

 ミーナクシー寺院の東門近くの食堂が混雑していて美味しそうだったので、昼飯時に行ってみた。巨大なバナナの葉の上に大量の白飯と4~5種類のおかずが乗る、南インド独特のミールスという定食で、もちろん素手で食べる。旅行中、さまざまなところでミールスを食べたが、この食堂のものが最高だった。まず、米が美味いし、カレーはあっさりしていて、素材の味を凄く大事にしている。破壊的なスパイス使いの、私の知っている北のインド料理とは異質のもの。白飯と、サンバルやラッサム等の基本的なおかずはおかわり自由。白飯を2回おかわりして腹がはち切れそうになった。

 深夜バス移動の疲れも出てきたので、一旦宿に戻って昼寝をきめこむ。起きたて慌てて外を見たら、すっかり日が傾いていた。夕日に赤く染まるゴープラムも美しい。朝も入ったしと一瞬迷ったけれども、結局は厳重なセキュリティチェックを潜りぬけ(「だから、それは替えの単焦点のレンズだって言っとるやんけ!」)、夕方の礼拝の人の波に飲まれてみる。もちろん、夕方も、礼拝の人々で寺院のなかはいっぱいになって、お祈りの声が響き渡っていた。回廊の天井は、夜の方が妖艶さを増しているようだ。

 ミーナクシー寺院を堪能して、この日は早めに就寝する。翌日は、インド大陸の最南端の聖地カーニャクマリへと向かう。陸路移動のゴールとなるフォート・コチはまだまだ先だ。やや慌ただしく。

2011年→2012年、インド、プドゥチェリー

 チェンナイからどこに行こうかと地図を眺める。ミーナクシー寺院が有名なマドゥライは必ず訪れるつもりだったが、チェンナイからはバスで10時間以上。飛行機を乗り継いで疲労が溜まった体に、いきなりの深夜バスはしんどいだろうと思い、機内で読んだLonely Planetで、もう一つ選択肢を用意しておいたのがプドゥチェリーである(人気のマハーバリプラムは帰りに残しておいたので、その件は、また後日)。チェンナイからバスで3時間程であり、南インドに慣れておくにはちょうどいいだろう。

 朝の4時。甘くて温かいチャイを飲んだ後、宿を探しにバスターミナルを出ると、案の定オートクリシャに捕まった。バスターミナルから安宿街まで2kmほど。値段を聞くとRs 1000とか言われ、阿呆かふざけんなと無視して歩くと、あっさり1/10になった。Rs 50までまけさせて、オートクリシャに乗り込む。ゲストハウスは満室ばかりで、5軒くらい断られ続けた後で、ようやく一部屋みつけた。清潔とは言えないレベルのでベッドだったが、ルーフトップにあって風通しがよかったので、ここに決める。風通しがいい分、毎晩大量の蚊の奇襲を受けることに、この時点では気付いていない。がんばって探してくれた運転手に、ちょっとだけお礼を足してお金を払う。

 北インドではバックパッカーと客引きとの壮絶なバトルが繰り広げられるものだが、南インドでは全くそんなことはなかった。リクシャの言い値は十分に安いし、それでも値切ろうとすると嫌な顔をされる。臨戦体制を取っていたので、少々面食らうことが多かった。

 数時間寝て、街を歩く。Lonely Planetに書いてある通り、フランス風味のコロニアル建築の街並みが残っている。長期滞在する欧米人が多く、旅行者の年齢層も比較的高い。ただ、キューバのトリニダーを見てきた自分にとってはたいして感慨はない。面白い建物の写真を撮ろうと思っても、どうしても新車が入り込んでしまうので、興醒だ。他国の発展を揶揄するつもりはないが、今回の旅で一番考えるテーマでもあった。

 まず、インドでお馴染みのサイクルリクシャを一切みかけなかった。つい3年前に出かけた北インドでは乗ったばかりだったので、これには驚いた。オートクリシャよりもサイクルリクシャの方が好きだったのに。つい10年前のコルカタで乗った人力車なんて、既に遠い過去の話になってしまった。そして、街中を走る新車の割合が多いこと。TATAのボロボロの乗用車を使い回していたのも遠い昔話。世界は確実に均衡化している。「地元の人は便利になることを望み、旅行者だけがそれを嘆く」。旅行人にあった言葉を引用したい。

 マナクラ・ヴィナヤガル寺院は、フランス風の街並みに突如現れたインドな空間である。ガネーシャを祀る寺院なので、ゾウが住んでいる。その長い鼻でもって、参拝者に祝福を与えるのである。ただし、ゾウにお金を渡す人限定で。ああ、なんと金に汚いゾウ。資本主義的なゾウ。素晴らしい躾のたまものか。そのうち、ゾウも資本論くらい書けるようになるかもしれない。

 フランス風味の静かな街並みから、1本大通りを挟むとインドらしい雑踏が待っている。僕はというと、雑踏に飲み込まれる方を選んでいた。インドの雑踏側で市場を見つけた。北インドと違って、冬でも温暖な南インドは野菜が豊富で、スパイスが山積みにされ、すごい活気。中途半端にコロニアルな街並みよりも、この市場での興奮のほうが勝ってしまった。市場の中は迷路のようで、ふらふらと彷徨いつつ、写真を撮りつつ。

 プドゥシェリーで2泊して、深夜バスでマドゥライへと向かう。クリスマスシーズンで満席だったが、隣に座ったインド人の学生と仲良くなる。街歩きの疲れでぐっすり寝て、起きたらマドゥライだった。学生に別れを告げて、宿を探しに重いバックパックを担ぐ。

2011年→2012年、インド、前書き

一括りにインドと言っても、それは一つの国家ではあるが、多く民族が住み、それぞれが多様な文化とを有している。僕らが思うインドの言語といえばヒンドゥー語だが、実はヒンディー語が使われているのはインド北部の限られた地域のみである。今回、僕が目指した場所は、今までのインド旅で使いまくった「ナマステ」すら通じない。

南インド、タミルナードゥ州のチェンナイから今回の旅は始まった。タミルナードゥ州の公用語はタミル語であり、挨拶は「ナマステ」ではなく「ワナッカン」である。インドの最南端の街カーニャクマリから西側に北上しケーララ州に入ると、それはマラヤラム語となり、「ナマスカーラム」と変化する。僕らの想像以上にインドは広い。

ここからの話は、2011年の年末にインドのチェンナイから海沿いをフォート・コチまで旅したときのものだ。インド大陸の三角形の先端を、右から左へ、ぐるりと回ったことになる。久しぶりの(そして、これからしばらく続く)一人旅。本当に充実した旅になった。

しかしだ。旅の数カ月前から私生活が崩壊して、夜な夜な酒に溺れる毎日。旅に出る前日、仕事の忘年会もあって適度にワインを飲み、その後、事務所の大家さんにも御用納めの挨拶をしつつ熱燗をいただき、馴染みのおでん屋に行ったあたりから記憶が曖昧になるつつ、しかし、そこから友人を家に連れ込み、締めのうどんを食べて、その後で携帯を忘れたのに気付いて先程のおでん屋に戻って、というところまでなんとなく覚えてはいるのだが、翌日は朝の8時に家を出なければならなかったのだが。

奇跡的に8時になんとか飛び起き、地下鉄を経由して南海のラピートに飛び乗る。無事に出国審査を通り抜けたまではよかったのだが、待ち合いあたりからとんでもない頭痛に襲われた。飛行機に乗り込み、シンガポール航空のサービスのおしぼりを目頭に当てながらテイクオフ。睡眠を取って回復に努めるが、ここで機内食の時間となった。機内に漂う匂い、それが気持ち悪い。食わないと衰弱することは長年の経験からわかっていたので、あっさりした野菜をぼそぼそといただく。そしてデザートには某高級アイスクリームメーカーの商品がでてきた。バニラだったので、思わず美味しくいただいてしまったのだが、どうにもその直後から調子が悪い。機内食のトレイが持ち出されるまで耐える。我が席のトレイが回収され、パッとトイレ(トレイではなく)の方を見れば、機内食から解放された乗客が長蛇の列をなしている。その瞬間、無理を悟り、目の前のエチケットバッグを握りしめ、そのまま…

隣の席の見知らぬ人に平謝りしながら、そんなこんなでシンガポールに着いた。シンガポール空港で食べた中華粥、本当に美味かった。衰弱して末端組織の温度が低くなっていたのだが、中華粥を一口胃に入れた瞬間に手足の先まで熱が通うのがわかる。もう、しばらく無茶な酒は止めようと誓った次第。

シンガポール空港で小説を読みながら5時間程潰して、チェンナイ行きの飛行機に乗り込む。多国籍なシンガポールにおいて、チェンナイ行きの待合室は、まさしくインドそのものの様相。明らかな東洋人は私一人だった。今度の機内食は美味しくいただき、夜の10時頃、インドはタミルナードゥのチェンナイに着いた。外から迫り来る熱気に興奮する。

チェンナイ空港からタクシーでバスターミナルへ向かう。旅行期間も限られているし、チェンナイみたいな大都市で無駄に過ごしたくなかったので、とりあえず南へ。特に行き先は決めていなかったが、機内で読んだLonely Planetで気になったプドゥシェリー。バスターミナルの呼び込みに「プドゥチェリー?」と聞くと、「乗れよ」と言う。これを逃したら次があるのかどうか定かではないし、ほぼ勢いのみで乗り込んでみた。思ったより快適なローカルバス。長距離の移動の疲れにうとうととしていたら、バスの運転手に起こされた。プドゥシェリーのバスターミナルに着いたそのとき、既に朝の4時。とりあえず、甘くて温かいチャイを飲んで眠気を覚ました。

« Newer PostsOlder Posts »