気仙沼から宮古までを旅した話。

普段は西日本にいることが多いこともあって、東日本大震災の情報が入ってくることが次第に少なくなってきた。日々のニュースは、原発再稼働や、維新のナントカとか、芸人いじめとか、うんざりするようなノイズばかり。運よく被災地を含めた東北での仕事に関わることになったので、まずは自分の目でじっくりとその土地を見ておく必要があると思った。2012年5月、通常業務の合間をなんとか縫って、新幹線を乗り継ぎ盛岡まで、そこからレンタカーを借りる。東北自動車道を一関まで南下し、国道284号線を2時間、ようやく海に出ると、そこは気仙沼であり、さらに海沿いを宮古まで北上した。

山側から気仙沼の市街地を通り抜ける限りでは、津波の被害を感じさせるものはほとんどない。しかし、港に出ると光景は一変する。あちらこちらで建物の取り壊しが行われている一方、取り壊しを待つ建物もまだまだ多い。車を駐めて、港沿いを歩く。海に落ちたままの桟橋の隣で、フェリーは元気に運航していた。

気仙沼の港に隣接して、プレハブの復興屋台村ができていた。街を歩いた後で、少しだけ立ち寄って話を聞いた。おばちゃん曰く、気仙沼はこのへんでは一番復興が進んでいないだろうとのこと。確かに、今回訪れたところでは、建物の取り壊しは進んでいなかった方だった。冷凍のフカヒレスープと、ポン酢しょうゆをお土産に買って帰った。

気仙沼の街を出て北へ向かうと、すぐ目の前に巨大な船が迫ってきた。ただし、船は陸の上にある。津波に乗ってやってきた船が未だに道を塞いでいる。震災が起こった当時のニュースの映像でみた記憶があった。まだ残っていたという事実に、まずは正直驚いた。私以外の人々は、まるでこれが遠い昔からこの場所にあったかのように、至極当たり前に目の前を通り過ぎて行く光景がなんとも不思議に思えた。

気仙沼からいくつか山を越えると陸前高田である。iPhoneの地図アプリで、陸前高田の中心部となっていた場所に立ち、360度眺めて、しばし言葉を失った。そこは、見渡す限りの更地と瓦礫の山に変わっている。川に架かった青い鉄の塊は、三陸鉄道の唯一の名残だ。平地が多いため、根こそぎやられてしまったらしい。綺麗に咲いていた菜の花は、余計に物悲しさを感じさせる。

さて、陸前高田からさらに北へ、大船渡の街に出た。海沿いは更地になってしまっているが、新しい道がしっかり整備されていたし、太平洋セメントの工場はしっかりと動いている。この辺りは工場が瓦礫処理を受け入れたこともあって、復興のスピードが速かったと聞いた。仕事の打ち合わせを何件かこなして、その夜は大船渡のホテルに一泊する。海からほど近い場所にあるホテルの周囲は廃墟となったビルか更地。泊まったホテルも2階の天井まで水が来たらしいが、なんとか営業を再開できたとのことで、工事関係者で賑わっている。

そんな中でも、お店は営業を始めている。夕焼けで赤く染まった空を眺めながら、「おおふなと夢商店街」を通り抜け、飲み屋が集まる「大船渡屋台村」に足を運んでみた。たまたま入ったお店のお姉さんは、震災前に近所で店を持っていたそうだが、店も自宅も流されてしまったらしい。流された自宅には補償が出たが、流された店には補償はない。生きていくためには稼がないといけないので、そんな店が集まって、この屋台村ができたそうだ。

屋台村が建っている土地は、震災前にはお店や住宅が混在していたところで、営業の許可を得るのだけでも相当の苦労があったとのこと。しかも3年の時限つき。なぜかというと、某大手企業が土地を買い取ることが決まっているそうなので、屋台村は出ていかざるを得ない。かといって、出ていく先もない。津波の被害が大きい場所は、土地の利用計画がまだ決まっていないので、建物を建てられる状況にはないそうだ。「どこかのお金持ちが建ててくれたら、私は家賃払うし、ちゃんとお店が出せればいいんだけど」とお姉さんは明るく語る。それを聞きながら、私ができることと言ったら、熱燗をもう1合追加することだけだった。

大船渡には北里大学の水産系の学部があって、震災前には学生が600人程度いたのだが、それも現在は閉鎖中である。「もう戻って来ねえのかな・・・」と4軒目のカウンターで隣に座ったおっちゃんはボソッと呟いた。それでも、研究者はそこに入って、水産の復興のために仕事をしている。また、養殖用の設備を全て流された漁業者も、そこに希望を見つけてがんばろうとしているし、この日の昼間はそんな姿をみながら、ちょっとだけ涙腺が緩んだのは内緒だ。

翌日の朝は打ち合わせをした後、さらに北へ、大船渡から釜石へと抜ける。釜石はこれまでに訪れた街の中では一番規模が大きい。工場が集積した港からバイパスを通り市街地へと進むと、被害が色濃く残っていた。適当な更地に車を駐めて、街を歩く。石応禅寺の麓にプレハブ建ての「青葉公園商店街」が営業していたので、お惣菜屋でオニギリを買った。商店街に隣接して、「KAMAISHIの箱AOBA」という交流の場がある。ネットが自由に利用できるし、いろんな情報が集まっているのだが、それ以上に、何よりスタッフの方の釜石に対する思いが伝わってくる。スタッフのお二人に釜石の美味しいものをいろいろ教えてもらった。駅前のまんぷく食堂の海鮮丼、すごーく美味しかったです。ありがとうございました。また必ず来ます。

時間もあまりなく、このまま盛岡に戻ろうかと悩んだが、後悔はしたくなかったので、さらに北を目指すことにした。釜石の隣に位置する大槌は、陸前高田のように街が忽然と消えていた。残っているのは2階まで抉り取られた鉄筋の建物だけ。お腹がいっぱいだったので復興食堂で何も食べられなかったのが残念。ここも再訪を誓う。

さらに1時間走って、宮古に至る。街中は別段変わりはないようだったが、いつの間にか浄土ヶ浜に迷い込むと、橋桁は落ちたままで、その背後の街は壊滅状態だった。仮設店舗の道の駅でお土産を買いつつ、すっかり時間がなくなって焦りながら盛岡へと戻る。慌ただしいことこの上ない。

自分で走ってみて初めて、被災地の広さを実感することができた。しかも、今回見ることができた地域は、ほんの一部でしかないのだ。また、釜石や大船渡といった比較的大きな街ではなく、その間の、小さな街こそ、まだ復興は手付かずだったことがわかる。自分が愛媛で仕事しているところは、そんな小さな街だし、ひとごととは思えない。

美しいリアス式海岸を作りだしたのが自然であれば、それを破壊したのも自然であり、それに逆らって生きることはできないし、自分のできる限りのことをやるだけだ。まだ何も言う資格はないのだけれど、(弁理士というよりは)水産の仕事をやっている以上、これだけは避けては通れない道であるとを思う。これから、できる限りのことをやりながら、何度もこの地を訪れて、少しずつ変化していく様子を眺めてみたい。